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横浜から戸塚の12kmを歩いた【東海道を歩く】

time 2016/12/24

前回の「川崎から横浜までの11kmを歩いた 東海道を歩く」に引き続き、今回は横浜から戸塚を歩きました。横浜駅西口から出発して戸塚駅前までの道のり12kmです。

日本で初めての鉄道は、1872年(明治5年)5月に品川と横浜の間で開業されたそうですが、現在の横浜駅が1915年(大正4年)に開業する前の43年間は桜木町駅が横浜駅だったそうです。桜木町駅の関内寄りの場所に「鉄道発祥の地」の記念碑がありますが、それにはそうした意味があったのですね。

横浜市内の国道1号線は相変わらず道路が広く、歩きやすい道なので助かります。

ちなみに横浜が開港するきっかけとなったのは日米修好通商条約ですが、開港地は当初、神奈川の予定だったそうです。 しかしながら、東海道沿いに位置する神奈川を開港すると、外国人との間にトラブルの発生する恐れがあった為、横浜に変更されたといわれています。

そうです、東海道を歩いています。旧東海道は、品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷と続いていきます。

横浜駅前は西区でしたが、少し歩くと保土ヶ谷区に入りました。横浜市には18区ありますが、その中でも保土ヶ谷区は1番初期に出来た区の1つ(他には、鶴見区、神奈川区、中区、磯子区があります)で、歴史ある区のようです。由緒あるお寺を多く見かけました。

歩いていると、本陣跡を見つけました。本陣とは、当時東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊する場所でした。保土ヶ谷の本陣は、苅部家が代々勤めていたそうです。本陣が混雑した際は、脇本陣に宿泊したといいますが、保土ヶ谷には藤屋、水屋、大金子屋という三軒の脇本陣があったそうです。

東海道と旧東海道が重なっていて、そこにある自治体が旧東海道に関して力を入れている場合、旧東海道の道路脇にこんな目新しい看板を目にすることができるようです。

脇本陣跡(藤屋)です。

旅籠屋跡(本金子屋)です。

歩いて行くと、保土ヶ谷宿の松並木と一里塚跡がありました。この付近にあった一里塚は、江戸から数えて8番目のものです。

日本における街道並木の推進が全国的規模で行われるようになったのは、江戸時代に入ってからだそうです。1604年(慶長9年)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう指示しました。以来、夏は木陰を作り、冬は風説を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民あげて大切に保護されてきました。ここの松並木は、歌川広重や葛飾北斎の浮世絵にも度々描かれているそうです。

横浜市内は、現在400万人近くの人が住んでいて、水が汚れやすい地域のはずですが、川は綺麗です。一里塚跡横にある川には鴨もたくさんいましたし、

このように鯉もいました(誰かが逃がしたのでしょうか)。

長らく平坦な道でしたが、下り坂に突入します。

細い道を下っている途中、戸塚区に入りました。

国道1号線を歩いてきていますが、旧東海道の案内が出ています。

東海道のすぐそばに旧東海道があると、こうした標識を確認しながら歩けます。

不動坂だそうです。

巨大なブリジストン工場近くで、舞岡川にかかっている「五太夫橋」という橋を見つけました。

ここは、中田に住んでいた石巻(五太夫)康敬が、徳川家康を息せきけって迎え平伏した場所で、彼の名に因んで五太夫橋と名付けられたといいます。康敬は小田原の北条氏康、氏政、氏直の三代にわたって仕えた小田原城の重鎮ですが、豊臣秀吉による天下統一目前の1590年(天正18年)、北条氏直の代理で石巻康敬が降伏のため上洛した際に、氏直が上洛しないことを敵対行為だと康敬を攻めた秀吉によって、康敬は死罪となるべきところでした。そこを家康に助けられて中田に蟄居したと伝えられています。康敬はその後、中田の地頭となり、子々孫々、代々その職を継いでいるそうです。

歌川広重が書いた戸塚宿の様子だそうです。道沿いには、こうした浮世絵が描かれた銘板をいくつか見ることができました。

3時間以上歩いてようやく戸塚駅に到着です。次回は、戸塚から藤沢を歩きます。

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