「自他の区別」ができない=「自分がない」=主体性がない=やりたいことが分からない

この本に関しては書きたいことが尽きないので、もう少し紹介します。

今回は自他の区別「人称」の問題という2つの項目から抜粋。

この項目から紹介する「自他の区別」ができない=「自分がない」性質は、

個人的に日本人女性に強く見られるものだと思っています。

特に母親が、母親自身を愛していないにもかかわらず(自己肯定感が低かったりして)、

家族のために母親と母親自身の時間を犠牲にしているタイプの場合、

その子ども(特に長女)に表れやすい性質だと思っています。

 プライベートな言葉を、そのままパブリックな場に持ち込んできたり、逆に、パブリックな場で投げかけられた言葉を自分のプライベートなフィルターを通して受け取り「傷付いた」とか「ひどいことを言われた」と反応したり、する人たちが実に多いのです。こういう事態は、「自他の区別」が出来ていない場合に起こると考えられます。

自分と他者が違う内界を持ち、違う価値観で、言葉一つにも自分とは違う意味合いを載せているかもしれない、ということが想像できない。つまりは、自分と他者が違う存在であるという当たり前のことが理解できていないということなのです。

~中略~

「自他の区別」ということについては、元来、日本人は苦手であったと言えるかもしれません。

~中略~

みんなと同じでなければならないと思い悩んだり、他人が自分と同じはずだと思い込んでいたりすることは珍しくありませんし、集団では構成員が同質であることが強要され、異質である場合にはいじめが加えられたり、排除されたりする。

~中略~

境界なしに自他がつながっているような人間関係は、「自他の区別」の出来ていない人が強く憧れるものです。しかし、そのような関係は、共に依存しあっている関係であり、永続的なものではありません。自分のすべてを分かってくれて、自分のすべてを受け入れてくれるような人間関係というものは、厳密に言えば現実には存在しません。

そのような「無いものねだり」を他者に求めることになってしまっている根本原因は、「自分が自分を愛していないこと」にあります。つまり、自分の内界が寒く寂しいものになっているために、他者にその代わりの温かさを求めざるを得なくなっているのです。

~中略~

「自他の区別」が未熟であることについて、普段はあまり気付かない人でも、海外生活などで日本をひとたび離れてみた時に、強烈にこの問題を実感させられたりするものです。普段はとても不調を訴えているけれども、欧米に旅行すると突然水を得た魚のように元気になる人もあります。しかし、帰国するとたいていまた元に戻ってしまう。

「自他の区別」ができていて自分がある人ほど欧米社会は過ごしやすいようですが、それは一体何故なのでしょう?

1950年代にフランスに渡った森有正氏の指摘によると、人と人とがコミュニケーションする際に、

西洋の個人主義においては、一人称である自分とコミュニケーションする相手との会話・会話内容は、

関係性によって変化しません(西洋の個人主義では、相手が誰であろうと自分の意見を言うのが当たり前)。

それが日本人の対人関係では、0人称である自分とコミュニケーションする相手との会話・会話内容が関係性によって変わることがあるといいます。

それは0人称の人の発言は0人称の人が属す社会の代弁をしているだけで、それが0人称の人を主体とした発言ではないからです。

主体は各社会の多数派に置かれ、各社会の構成員に主体は求められません。むしろ主体を放棄させられます。

その結果、関係性によって会話・会話内容が変わってしまう、感情主体のコミュニケーションが主流となるようです。

0人称とは「自分がない」ことで、

ぬるま湯的安楽さと、一度浸ってしまったらなかなか抜け出せない中毒性があります。その安楽さとは、自分を主体として立てない安楽さで、それは同時に相手にも主体(一人称)を放棄することを求める性質がある。そして、コミュニケーションは、「私もあなたも同じだよね」といった、同質性の確認に重点が置かれることになります。

上記文章を読んでギョッとしました…

「相手にも主体を放棄することを求める性質」こそ、日本人が自分の頭で考え行動できない原因であり、

各社会における異質性を認めない元凶であり、個人を閉鎖的村社会の構成員として繋ぎとめておくための鎖になるからです。

こうした社会では、主体性なく各社会における常識や流れに従う人が好まれます…

でもそういう人がトップにいる組織は、主体性のない世界では上手くいっても、そうでない世界ではかなり苦労するはず。

一方で、大なり小なり各社会の構成員が主体性を放棄している(自分がない)と、社会構造上の急激な変化は起こりにくいかもしれません。

が、主体を放棄した構成員でも、多数派に属す感覚にだけは長けている場合が多いので、

村八分にならないよう社会の空気を敏感に察知しながら、何が何でも多数派に属そうとします。

その結果、先の戦争のような過ちを起こしてしまう可能性もあるはずです。

ある村社会の構成員でいるために自分をなくすことを強いられてきた人々は、誰に対しても共依存の関係を求めます。

その村社会で生き抜くためには、共依存であることが不可欠だからです。

例え違和感を覚えても、その村社会以外で生きていく方法を知らなければ、辛抱我慢しながら自分を納得させてやり過ごすしかないのだろうと思います。

しかし、ある村社会の構成員でいる必要がないなら自分をなくす必要もなく、村社会に属す人々と共依存関係になる必要もない。

その村社会以外で生きていく方法を知っているなら、違和感を覚えた時点でその村社会から飛び出していくかもしれません。

著者も言っている通り、「自分がない」人は他者に無いものねだりをして自分の欲求を満たそうとしますが、

自分が自分を愛さない限り、その欲求は永遠に満たされません。

上記でも書きましたが、受動的ではない能動的な姿勢で生きていくことが、「自分がある」状態をつくる第一歩なのかなと思っています。

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