頭(浅い感情)ではなく、心(深い感情)に沿って生きることが自信をもつことに繋がる

『「普通がいい」という病』で、感情には「心」由来の深い感情と、「頭」由来の浅い感情の2種類があると知り、その内容がとても興味深いものだったので書いておきたいと思います。

「心」由来の深い感情とは

まず、「心」由来の深い感情とはどういうものなのかについて。

本書では「感情の井戸」という図を使って分かりやすく説明されており、その井戸の中で、感情は喜・怒・哀・楽の4つで表されています。

著者によると、その感情は井戸の地下にある時には意識されることはなく、地上に出てきてはじめて意識されるものになるそうです。

著者の臨床経験で明らかになった重要な所見では、上から怒・哀・喜・楽の順番で「感情の井戸」の中に入っていることです。

この感情は順番に入っているので、一番上の感情「怒」が出てこないと、2番目以降の「哀」、「喜」、「楽」の感情は出てこられません

上2つはネガティブな感情、下2つはポジティブな感情ですが、前述したように一番上の感情が出ない限り、その下にある感情は出ることができないため、

ネガティブな感情を出さなければポジティブな感情も出てくることができないということになります。

そうなると「心」由来の深い感情においては、ネガティブがなくポジティブのみということはあり得ず、

〈ポジティブ・シンキング〉と言われるような考え方で実現されるものは、せいぜいが浅い感情止まりの表面的なものである(p112)

ということになります。

また著者は、「怒」や「哀」という感情をネガティブと捉えること自体が誤りであると述べていて、

すべての深い感情は、どれも尊重すべき大切な感情であって、「ネガティブは無しにして、ポジティブだけでいきましょう」というのは、曇りや雨なしにいつも快晴でいきましょうということと同じで、それでは砂漠になってしまう。怒りや哀しみの自然な発露は、喜びや楽しみと同じくらい大切なものなのです。

しかし、これは深い感情についての説明です。ですから「怒り」が出なくても嬉しかったり、楽しかったりするという人もいるでしょう。そういうことは浅い感情レベルではもちろんあるでしょうが、もっと根源的で揺さぶられるような感情については、このような秩序があるわけです。(p113)

と説明しています。

人間は有機体のため、ネガティブ無しにポジティブだけで進もうとすること自体、ありえない話。

にもかかわらず現代では、「怒」「哀」などのネガティブ感情は抑えることを求められます。

すべての深い感情は、どれも尊重すべき大切な感情という点が忘れられているんですよね…

ちなみに、粘着的で悪質な感情(主に「怒」)は、著者のいうoldな感情といえます。

著者によると、「怒」にもoldな悪質なものとfreshな良質なものがあり、freshな「怒」は、叱る形でサッパリしていて後を引かないのだそうです。

が、oldな「怒」は、粘着的で後にもダラダラ引いてしまうものらしいです。

「怒」にそんな種類があったとは知りませんでしたが、そう知ると現代で頻繁に目にする「怒」は、oldなものが多いように見えます。

とはいえ、人間が深いレベルで変化し始めるときの重要な兆候として、この「怒」が最初に現れるので、

周囲も本人も「怒」をマイナスに捉えがちだが、大切な感情として見守る必要があると著者は指摘しています。

また感情には鮮度があり、「怒」にも鮮度が高いもの(fresh)とそうでないもの(old)があるように、

それを順番に出しきらなければその他の感情を意識することは不可能だそうです。

old「怒」→fresh「怒」→old「哀」→fresh「哀」→old「喜」…という感じです。

ただその場合、他者に対して感情を出すのはお互い大変なので…

著者は、誰にも見せない「心の吐き出しノート」に何でも吐き出すことを提案しています。

そうやって感情を自分の意識の外に出すことにより、怒・哀・喜・楽の感情が順番に出てくるようになり、徐々に感情が整理され浄化されていくのだそうです。

ここ最近私も試していますが、驚いたのは過去の感情を吐き出すうちに、これまで意識していなかった忘れていた感情も出てきたことです。

始めは「あの時は寂しかったな、悲しかったな、辛かったな」等だけでしたが、

徐々に「あの時嬉しかったな、楽しかったな、すごかったな、よくやったな」というように、いろいろな感情が出てくるようになりました。

感情がまんべんなく出てくるようになった感じです。

どうも幼少期や10代に抑えつけていた感情は相当多かったみたいで、それが20代以降かなり影響していたと今頃気付きました。

当時は「今耐えれば、きっとこの先良いことがある」と何とか希望を持ちながら辛抱して生きていましたが、それは心(深い感情)を抑えつけているだけだったようです…

ちなみに、「心」由来の深い感情が「頭」によって強力に抑えつけられてしまった場合に、離人症となる場合があるそうです。

離人症とは、自分に起こっている現象であっても、見るもの聞くもの全てがよそよそしく感じられてしまう症状で、

自分がやっていることなのに、まるで他人がやっていることを眺めているような感じになるのだそうです。

そこまで読んで…もしかすると10代~20代前半にかけて、離人症だったかもしれないと思いました。

「悲しい」「頭にくる」「幸せ」「苦しい」など、言葉としては分かっても、その内容が実感できない。もちろん、自分の中から感情が湧き上がってくることはありません。これを、失感情症とも言います。(p118)

上記を読んで、失感情症でもあったのでは…と思いました。

当時は、人生経験が浅いから自分の感情が分からないんだと思っていましたが、まさか心由来の深い感情を抑えつけていたのが原因だったとは…

感情を認識できないのはそのせいだったようです。

もっと早く気付ければよかったですが…今更でも気付けて良かったと思います。

結局、感情は抑え込まず何らかの形で吐き出す必要があるわけです。

「頭」由来の浅い感情とは

と、ここまでは深い感情についてご紹介してきましたが、一方浅い感情とはどういうものなのでしょう?

著者によれば、よく「感情的」と言われるような感情、これが浅い感情だそうです。

浅い感情は「頭」から生まれてくるもので、

「心」由来の深い感情が「今・ここ」に反応するものであるのに対し、浅い感情は「頭」由来なので、過去・シュミレーションした未来・ここ以外の場所の要素があり、たとえば、過去の出来事を引きずっているものだったり、期待をかけて叶わないことによるものだったり、本来は別の対象に向けられるべき感情であったりするのです。また、「頭」の中にあるポリシーに反することに出くわした時に出てくる感情も、これです。

浅い感情は、衝動的で、その感情を保持できず、すぐにも吐き出さずにはいられないもので、「ヒステリック」と形容されるような性質があります。(p122)

「頭」から生まれてくる浅い感情は「~すべき」や「~してはいけない」という系列だそうですが、

厄介なのはそんな浅い感情が、「心」由来の深い感情のように偽装される場合があることです。

「心」由来の深い感情であれば、身体はその感情に矛盾した行動はとらないので、「~したい」と思えば身体もそれに応じます。

が、仮に「~したい」と思っている場合でも身体が応じない場合は、偽装された「頭」由来の浅い感情である可能性が高いわけです。

「心」由来の深い感情であれば、必ず「身体」と一致しているはずですし、居ても立ってもいられないような性急さはそこにないはずです。そして、深い感情の場合にはそれを大切にし、浅い感情と分かった場合にはそれに振り回されないようにする必要があります。(p124)

著者は、「心」由来の深い感情は「愛」であり、「頭」由来の浅い感情は「欲望」であると述べていますが、まさにその通りだなと思いました。

現代は「心」よりも「頭」が優先されている社会です。

そのため子どもの大半は、親がもつ「頭」由来の浅い感情に「なんかおかしいな」と思いながらも従い、子ども自身がもつ「心」由来の深い感情にフタをして生きていくケースが多いのかもしれません。

その結果、「心」が限界になったり、亡くなる前に「本当にこの人生で良かったのだろうか」と思ったりするのかもしれません。

そう思うと「心」由来の深い感情を優先して生きられる子どもは、将来的に幸せになる可能性が高い気がします。

そして、「心」由来の深い感情を優先して生きられる人は、自分を信じられるので自信をもって生きていける気がします。

そう考えると、「頭」由来の浅い感情によって生きてきた私のような人間が、本心から追い求める人生を進むためには、これまで抑えつけていた感情を意識的に吐き出していく必要があります。

そうやって抑制していた感情を排出しながら、「心」由来の深い感情がじんわりと湧き上がってくるのを待つのが、自分には合っているように感じています。

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