生まれ持った物差しが原因の人格障害…そこからの脱出

人格障害では自己愛障害が根本にあって、そのために対人関係での基本的信頼感がうまく作れず、多彩な症状が現れてくるといいます。

その症状とは、リストカットのような自傷行為、深い抑うつ感情、死を願う気持ち、反復される自分で命を終わらせる企て、対人関係の不安定さ、人間不信、特定の人間への依存的しがみつき、衝動的・刹那的な言動などです。

著者によると、

自分自身への「愛」がうまくいっていないということは、自分自身に対して「欲望」を向けた状態にあるとも言えます。「~でなければならない」というものを自分に押し付け、それに応じ切れない自分に制裁を加える。(p167)

というのです。

本来は心から湧き上がる「~したい」という欲求に気付き、その欲求に基づいて自分なりの道を進めるのだと思います。

が、幼少期に何らかの原因で自己否定を行った結果、自分に対し「愛」ではなく「欲望」を向ける形となり、

それが心からの欲求を自覚させないレベルにまで達した結果、人格障害を引き起こすことになったのではないか?と想像しています。

もちろん「心」由来の深い感情を抑制した結果、「頭」由来の浅い感情しか意識できなくなったことも関係していると思います。

著者も述べているように、

自分自身を愛するということは、何も特別に訓練して獲得されるものではなく、生まれながらに出来ているはずのことです。それを、何かが歪めてしまっただけなのです。(p168)

これまでそうした人格障害の原因は、親の愛情不足が原因だと思ってきました。

が、この本を読んで実はそれ以外の原因もあるのでは?と思えてきました。

それが、

このような問題を抱えた人たちには、生まれつき感性が鋭敏で思考力が高い人が多い印象があります。(p170)

という独特の性質です。

こうした性質は自分を愛しにくくするだけでなく、生きにくさを感じやすかったり、

標準的感性なら辛くは感じない出来事を、辛く感じやすくしている可能性があるようです。

そんな風にして人格障害を抱えてしまった場合、その状態から脱するにはどうすればよいのか…?

著者は「愛」の自給自足を提案しています。

考え方としてまず間違ってはならないのは、先ほども説明したように「自分を愛する」ことは後天的に獲得されるものではなく、~中略~、生まれたときには問題なく出来ているものなのだというところです。

ですから、「愛されてこなかったんだから、不足分だけ愛してもらえなければ、自分はこの苦しみから抜け出せない」と思い込んで待ちの姿勢でいる人がありますが、外からもらえなければどうにもならないというのが間違った考え方なのです。しかも、このような場合に本人が「愛」として期待している内容とは、寸分違わずに自分を理解してもらい自分の希望通りに相手が応じてくれるイメージになっているものですが、それは明らかに肥大化した「欲望」と言うべき幻想です。

このような思い込みから覚めるために必要なのは、「愛」の自給自足を体現している存在に出会うことであり、そして自給自足を妨げている要素を丁寧に取り除く作業に着手することです。(p172~174)

「他人が何とかしてくれる」という受け身の姿勢である限り、問題の根本は何も解決しないというわけです。

自分の欲望を満たすために、子どもやパートナー、友人、その他を利用する場合も同じかもしれません。

日本社会にはそうやって「愛」と「欲望」をはき違えながら生きている人が多そうですが、私自身もそういう面があると思います…

今回は「生まれつき感性が鋭敏で思考力が高い」ことが原因で、人格障害になる可能性があると書きましたが、

個人的には、他人の気持ちに敏感な子どもほど人格障害を抱える可能性が高いと考えています。

もちろん他人の気持ちに敏感であっても、そこから影響を受けるかどうかは個人差があると思います。

「自他の区別」ができない=「自分がない」=主体性がない=やりたいことが分からないでも書いたように、

他人の気持ちに敏感であっても自他の区別ができている人は、他人と適切な距離を保てている場合が多いため人格障害にはなりにくいかもしれません。

世の中で何の障害も持たない人はいないと思いますが、自分自身、この性質が原因の人格障害は現代社会で生きるには厄介だと感じています…

上手く付き合って生きていくしかないのですが、なかなか難しいです。

ただ愛の自給自足ができる環境に身を置き、自分の心のあり方を変えることができれば、

少しずつこの性質による苦しみは減っていく可能性が高そう。

であれば「愛」の自給自足を体現している存在を探すと同時に、自給自足を妨げている要素を丁寧に取り除く作業を始める必要がありそうです。

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