ぺんぎんメモ

自分が満たされていないと、愛ではなく欲望(偽善)になってしまう

time 2019/02/22

『「普通がいい」という病』で、「欲望」と「愛」の違いについての記載があり、これまでの内容と関連して興味深いものだったので紹介します。

 愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。

欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである。 (p146)

この文章を読むと、現日本社会がいかに「欲望」に溢れているかが見えてきます。それだけ生まれた時から「心」由来の深い感情を抑圧されたまま、「頭」由来の浅い感情で生きている人が多いのだと思います。

子どもと親の関係など、本来「愛」で結ばれるはずの関係さえも、親の「欲望」が満たされていないために(親の人生における感情抑圧が多すぎて)、親の「欲望」を満たすための親子関係を、子どもに強いている場合が多々あります。「将来のあなたのためを思って言っているのよ」とか「親の体面を汚さないでほしい」などは、親の愛に見せかけた「欲望」だと著者も指摘しています。

「愛」と「欲望」の区別がつかない人は、「良かれと思って」というものを「愛」だと思い込んでいて、相手を窮屈にしていることに鈍感です。しかも、「良かれと思って」の裏に、相手に「感謝されたい」といった自分の「欲望」が潜んでいることを自覚していません。

「感謝されたい」と思うのは自然な気持ちではないかと思う人もあるかもしれませんが、それはやはり相手に何かを強要しているコントロール志向であることに変わりありません。ですから、「悪気があったわけじゃないし、あなたに良かれと思ってしたことなんだから大目に見て」というわけにはいかないのです。(p147、148)

「親に感謝しろ」という価値観はおかしいでも書いた「親に感謝すべき」論ですが、子どもから感謝を求める親の大半は、「愛」ではなく「欲望」で子育てをしてきたように見えます。そして、それを子どもは見抜いているからこそ、親に感謝できないのだと理解できます。

私に子どもはいませんが過去を振り返ると、膨大な欲望を他者に求めていた時期があったと思います…恋人、友人、親などに対して、不自然な気持ちで接していた気がします。今思えば、それは満たされていない「愛」が膨大にあるにもかかわらず、手っ取り早く満たせる「欲望」にしがみつきたかったんだと思います。我ながらひどい人生を送ってきました…

子どもへの問題に置き換えてみれば、「愛」であれば子どもの子どもらしい進路選択や親からの独立を喜ぶはずですが、「欲望」の場合には、子どもを親の希望するような進路に進ませたいし、いつまでも自分のそばにいて欲しいという話になる。しかも、ここで必ず「あなたの将来を思って言っているのよ」というすり替えが行われるのです。(p148)

これって親あるあるですよね…親と同居している独身者にはこのケースに該当する人も少なくないと思います。特に母娘。親が子どもに同情を誘って、子どもをいつまでも傍に置こうとするとか。面倒を見て欲しいとか、夫と2人きりになりたくないとか、家の用事を押し付けようとするとか。

どこかのタイミングで子どものほうから、親と縁を切るくらいの覚悟で家を出る以外に、ズルズルと共依存の関係が続いていくのではないかと予想します。

ちなみに、「欲望」はあらゆるところに出現するらしく、

教育・福祉・宗教など、自分より弱い立場にある人間を相手にする職業すべてについても当てはまる(p155)

と著者は述べています。子どもと親、生徒と教師、患者と医療関係者、被災者とボランティア活動者など、弱者を相手にする関係では「欲望」が出てくる可能性がいくらでもあるというのです。

とはいえ、現代で仕事として成立させるためには、「欲望」もある程度必要かなと思いますが。度が過ぎる「欲望」が生きがいになって、それが職業として弱者に襲いかかると怖いなと思う部分もありますが。

自分の生きがいは、他人を巻き込まずに自分自身できちんと得ることがまず大切な基本だと思います。そのベースがあってはじめて、他者と「欲望」を混入しない関係が結べることになる(p155)

という著者の意見には強く納得します。

他人を巻き込まずに生きがいを得られるのが基本……重い重い言葉だと思います。それができる人がこの社会にどれだけいるんだろう。「欲望」ありきの関係しか結べずに亡くなる人がいかに多いか。

経済中心の「欲望」に流されやすい社会構造が原因だと思いますが、1人1人が自分の生きがいを自分で得ることができれば、他者に「欲望」を求めないし、粘着的に絡むこともないのかもしれません。

そういえば10代の頃の友人関係で、気が合うよりも「他者から1人ぼっちに見られたくない」という気持ちを優先していたことがあり、気が合う友人がいなくても1人でいられる自分で居たかったと、今でも思うことがあります。

それだけ当時の私は「頭」由来の浅い感情を優先させ、「心」由来の深い感情を抑圧させて生きていたのでしょう。とはいえ、「欲望」は「愛」に変わることはないので、それに気付くまではその「欲望」を「愛」と勘違いして追い求めてしまうことになります。でもだからといって「欲望」を意識しないように溜め込んでしまうと、それはそれでおかしなことになってしまうのだそうです。

ゆえに「欲望」は何らかの形で整理・浄化し、他者への「欲望」という粘着的感情として表出しないように、普段から出し切っておくことが必要なのかもしれません。

そうすることによって、「頭」由来の浅い感情ではなく「心」由来の深い感情を意識できるようになり、徐々に「欲望」ではなく「愛」を認識できるようになり、その「愛」を自給自足できるようになったら、他者への「欲望」や粘着的感情が無くなり、ようやく他者と「欲望」抜きのさっぱりとした関係が気付けるのかもしれません。

自分が満たされれば、他者に対して浅い感情による言動・行動はとれなくなり、「心」由来の深い感情に沿った言動・行動が自然と出てくるようになるんでしょうね。

今回この本を読んで、自分を満たすことがいかに大事か、をひしひしと感じました…と同時に読んでいて怖くなりました。なぜなら、日本人には自分を満たすという概念すら無さそうだから。諸外国のように生活を楽しむとか、数週間の休みを取るとか、友人や家族との時間を大切にするとか、そういう心を満たすことに対して無価値という刷り込みがあるかのような社会だと思うからです。

でも自分が満たされていないと、ありとあらゆる形で他者に対して欲望を振りかざすことになって(共依存的関係や粘着的関係を望む等)、個人個人の関係は悪くなっていくばかりではないかと思います。この辺りで、自分で自分を満たせるような意識が社会に生まれないと、もっともっと生きづらくなるんじゃないかなと心配しています。

down

コメントする




       



アーカイブ



プロフィール

ぺんぎん

ぺんぎん

奨学金を返済しながら移住・(セミ)リタイア生活に向けて準備しているブログです。社会環境への言いたい放題、旅、食事など実体験を踏まえてお届けします。科学的かどうかは重視していません。基本的に自由です。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ [詳細]