ぺんぎんメモ

多数派ではなく少数派なら、大通りよりも小道を行く

time 2019/02/11

何度もご紹介している『「普通がいい」という病』の内容。今回は「マイノリティの苦しみ」「小径を行く」「メメント・モリ」「タヒに近づく人間」という項目を抜粋したいと思います。

なぜ今回この項目をご紹介するかというと、自分自身、後ろ向きな意味で少数派だという意識を持ちながら過ごしていた時期があり、本文に書かれていた内容に強く共感する部分があったからです。もし今後できることなら、何とか生活はしながら、誰も歩んだことのない自分なりの道を歩みたいものです(法律の範囲内で)。

さて、前置きはここまでにして本文へ入りたいと思います。

もし自分以外の人間がみな同じ病気で自分だけが病気じゃなかったとしたら、その人はどう感じるでしょうか。そう、たぶん「自分がおかしいんだ」と考え、自分をみんなと同じ「正常」に変えなければならないと思うことでしょう。

多数派をマジョリティ、それに属さない少数派をマイノリティと言いますが、クライアントの苦しみは多かれ少なかれ、何がしかの資質において、それがマイノリティであるために起こっているものだと考えられます。しかし、彼らがマイノリティの部分で感じ取っているさまざまな違和感は、マジョリティの人間が気付かずにやり過ごしている問題を敏感に感じ取っていることが多く、聞いていてなるほどと思わされることがよくあります。(p206)

この指摘にはハッとさせられました…閉鎖的村社会である日本では、特にこの「正常に変えなければ」という傾向が強いと思ったからです。とはいえ、自分の構成要素の中に少数派だと感じる部分があっても、それが属す社会で誇れる要素であれば、そこまで違和感を覚えず「正常に変えなければ」等とは思わないかもしれません。

が、そうではない場合、村八分にならないように仲間外れにされないようにと、周囲に合わせるよう努める人が多いのではないでしょうか。

ここで著者は、ジョーゼフ・キャンベルの「言うまでもなく、思考に関しては多数派はいつも間違っています」という発言を用いて、民主主義における多数決原理は、ある一つの便宜的手段に過ぎないこと、そして多数・少数ということが、決して物事の価値を計る基準にはならないことを指摘しています。

 マーケティング原理が支配している今の時代では、多数に売れるものこそが価値あるものだと捉えられてしまう傾向がありますが、そこでは、浅薄でお手軽なものが大きな顔をしていたりすることがよくあります。そんな中では、物事の本質を敏感に感じ取る人間ほど、いろんなところで違和感を覚えるでしょうし、そのために本人が、いつの間にかマイノリティと位置づけられてしまうかもしれません。(p207、208)

経済中心社会である現代日本では、「多数に売れるものこそが価値あるものだと捉えられてしまう傾向」が顕著ですが、例えその時は社会のニーズに沿った価値を提供していたとしても、長い目でみれば社会構造的に有害であったりもするわけです。

もちろん、現代日本社会は民主主義であるがゆえに、多数決原理で進めていくことは仕方がない面もあるでしょう。ただその際、多数派だけに価値があるという固定観念を植え付けるような教育や空気を、野放しにしておくことには懸念があります。

少数派の問題を考える上で分かりやすい話として、著者はアンデルセンの『みにくいアヒルの子』を紹介していますが、この話の大事なポイントとして著者は、みにくいアヒルの子が最後にアヒルよりも大きく美しい白鳥になるところを挙げています。

それは、少数派であることに苦しんでいた著者のクライアントが、白鳥になるような変化を起こしていく場面をたくさん見てきたがゆえの説得力ある視点だと思いました。

大通りを行くのがマジョリティ。マイノリティの人は、どこかで大通りから外れる。「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」という彫刻家で詩人としても有名な高村光太郎の言葉がありますが、まさに道のないところを行くわけです。細い小径、一人通れるだけの道です。ここは一々障害物があったりして、「こっち行こうか、あっち行こうか」と自分で判断をしながら一つ一つ選択して、道なき道を行かなければならない。これがマイノリティの道です。

一方、マジョリティの大通りでは、「みんなも行っている。みんなそうだから私もこれでいいんだ」と思って、自分自身では判断を行っていません。また、この道がどこに向かっていくのかも知らない。そういう意味で自分の人生に責任を持っていないし、自分の人生にもなっていないわけです。~中略~

マジョリティの大道りは、不自然で窮屈な道です。人間はそれぞれユニークな存在なのですから、本来一万人いたら一万通りの道なき道があるはずです。にもかかわらず、大勢の人が通る大通りというものがあること自体、とても不自然なことです。

大通りを歩くということは、いろんなことを諦めたり、感じないように麻痺していたり、すなわち去勢された状態で歩いているということです。そうでもなければ、苦痛で歩けたものではありません。しかし、それでもなぜ多くの人間がそこを歩きたがるのか。どんな人だって、本当は自由でありたいはずなのに。(p210~212)

この現象について著者は、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』という本に書かれたエッセンスを抽出して説明しています。

自由というものは、なんの指針もなければ、その小径が正しいのかと問われても答えようがないもので、自分の判断以外に当てに出来るものはない。マニュアルもなければ他人との比較も出来ないし前例すらない。これが自由ということの大変さなのです。そして多くの人は、このリスクが怖くてしょうがない。それに比べて、大通りは不自由だけれど安全。これが、人々を大通りに強くひきつけている最大の理由であるということなのです。

大通りの人たちは、必ず徒党を組みます。彼らは、内に不自然さ、窮屈さを無意識的に抱えているので、どうにかしてそれを打ち消しておく必要がある。そうでなければ、自分たちの大通りが間違った道であるということがバレてしまう。打ち消すには、井戸端会議的に徒党を組むのが一番手っ取り早い。「ね、そうよね。私たち正しいわよね。あの人はちょっと変よね」というようなことを言って、大通りを外れた人のゴシップをネタに、自分たちを正当化して安心するわけです。(p212~213)

大通りを行くのに安心感を覚えるのは、皆それぞれこの社会で生きていくことに不安があるからだと思いますし、それだけ個人が守られていない社会である証ともいえるかもしれません。ただ、そんな状態では真に生きているとはいえないというのが著者の主張です。

考えてみると生態系と同様、一部の組織が大きくなるほど社会構造も歪になっていくケースは多く、そんな社会では多数派ばかりが優遇されて、例え少数派が正しいことを言っていたとしても、肩身の狭い思いをしている場合もあるわけです。

それは、多数派を優遇しておいたほうが都合の良い会社や組織が、社会全体に溢れているからだと個人的には思っています。長年の癒着による既得権益を手離したくない組織、その組織から恩恵を受けている別の組織や個人は、そう考えても不思議ではないでしょう。

特に経済中心の日本社会では、多数派が属す社会にはそれだけお金も集まってきますから、組織が大きくなればなるほど多数派を育てることに力を注ぐようになるはずです。多数派が別の多数派へ行かないように。

でも、本当にそういう生き方でいいの?と著者は疑問を呈しているわけです。

タヒを目の前にした時に、自分自身の生が不自然だったと思えてしまったなら、たぶん大変な後悔が訪れることになるでしょう。もちろん、誰しもタヒそのものについては想像することしかできないわけですが、このタヒという問題をきちんと見据えて生きることは、最後の瞬間にとても大きな違いを生むものではないかと思うのです。失敗も成功もすべてひっくるめて、自分らしい人生だったと思えるならば、納得のいくタヒに方ができるのではないでしょうか。

メメント・モリ、ラテン語で「タヒを想え」「タヒを忘れるな」という意味の言葉です。タヒというものを隣に置いてみてはじめて、今の自分の生きかたが本物なのか偽物なのかが照らし返され、明らかになる。だから、よく生きるために、いつもタヒを忘れてはならないという古くからの警句です。(p214)

個人的には、タヒに向き合う機会が多ければ多い人ほど、生き急ぐような傾向があるように思っていましたが、それはそうでない人よりもタヒが身近にあるためなのかもしれません。もちろん、そればかりが良いとは思えませんが…

さらに、著者はこうも述べています。

戦争をしかける国では、ほとんどの人が大通りを歩いているものです。そして、ぬるま湯のような生きている実感が乏しい状態の中で、どこかから正義という名の大義名分が登場して、「あの国に侵略されないために、先手を打ってこちらから攻めましょう」というようなことが言われ始める。すると戦争は反対だと考えていたはずの人までもが、自分の奥底で疼きだす何かに突き動かされて「平和のためだ。戦争を無くすための戦争だ」というスローガンに乗っかってしまうことも起こってくる。それが戦争なのだろうと思います。

ですから、本当の平和とはどうしたら実現するのかと考えてみると、みんなが一人一人の小径を行くマイノリティになることしかないのではないか。小径では、一人一人が生きること自体がメメント・モリになっているわけで、そうなれば国民の大多数が一つのイデオロギーやムードに支配され流されることは起こらない。それぞれ、自分が生きていること自体、明日タヒぬかもしれないという自覚と緊迫感があるわけですから、誰もわざわざ戦争をしようとは思わなくなることでしょう。(p220、221)

著者は多数派として大通りを歩くのではなく、1人1人が小径を進んで少数派として生きることが、結果として戦争回避にも繋がると述べています。それは少し飛躍した話だと思いますが、1人1人が小道を歩むという考え方には強く同意します。

多数派となる巨大組織に属したほうが安全安心、という価値観は確かに分かります。でも、そうでない価値観もあり、その価値観で生きていく自由もあるのです。少数派、もしかしたら1人かもしれませんが、そのように小道を行く方が自分らしい・真に生きる・生きやすい人生と思える場合もあるわけです。

もちろん、食べていかなければいけないのでキレイごとでは済まされない道です。すでに守るべき家族がいて子どもがいたとしたら、そんな人生は歩めないかもしれません。

ただ、そんな環境でも社会の多数派に流されず、自分の判断で障害物を乗り越えながら自分らしい人生を歩んでいるとすれば、それはそれで道なきところを進んでいる少数派なのかもしれません。

今後、各社会をより良い方向へ変える少数派が増えて既存の多数派を浸食するようになった時、後ろ盾のない少数派への弾圧や村八分的空気などが起こらないような余裕が、この社会にあって欲しいものです。と同時に、「少数派であっても自分らしい人生を生きる」ことが当たり前の社会になることを心底願っています。

       



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奨学金完済を目指しながら、旅、食、自然、心理、(セミ)リタイア、移住など追求して自由に暮らしています。

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