最近読んだ『海外農村視察必携 世界の農業をどうとらえるか』(七戸長生、1993)。
これは、日本で農業を行う人々が海外視察時に必要な視点・準備・勉強と、
その海外視察で得た情報の展開方法を紹介している本ですが、
江戸時代の北日本農村部に関する記述があったので紹介しようと思います。
日本の国土は8割近くが山岳地帯なので、農村部の大半も山に囲まれています。
当時、北日本農山村に住んでいた庶民の生活は、この本によると多少の地域差はあったものの経済的に極端に貧しかったといいます。
明治時代初期の1878年に、東京から東北地方を経て北海道(日高海岸のアイヌ部落)までの1500kmを、
馬と徒歩で旅したイザベラ・バードというイギリス人女性(当時47歳)が書いた『日本奥地紀行』に、その農山村の生活状態が記されています。
彼女は病弱な体質を克服するために、若い頃から世界各地(カナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージランド、ハワイ等)を旅しており、当時、旅行作家としてすでに世界に知られた人物でした。
そんな彼女は約100日間にわたって北日本を旅したわけですが、当時の日本列島は、主要道以外石・岩だらけで道が全く整備されておらず『日本奥地紀行』でも、
「りっぱな道路こそは、今の日本でもっとも必要なものである。政府は、イギリスから装甲軍艦を買ったり、西洋の高価なぜいたく品に夢中になって国を疲弊させるよりも、国内の品物輸送のために役立つ道路を作るというような実利のある支出をすることによって国を富ました方が、ずっと良い」
と述べています。
そんなバードによれば、
「この地方の人びとは、数里先のことも知らない。駅逓係も、次の宿駅の先のことはほとんど説明できない。(中略)さらにたずねても、その返事はきまって、『それはひどい山道だ』とか、『ひどい川をたくさん渡らなければならない』とか、『泊まるところは百姓家しかない』と言」(『日本奥地紀行』)
う具合だったとのこと。
主要道以外の道路が整備されていなかったためか、集落同士の交流も少なかったであろう当時の日本列島農村部は、他集落の情報など知る由もなかったのだろうと想像します。
また、当時の百姓家の大半はいろりの煙で煤(すす)だらけ、ノミや蚊も大量にいて、障子で囲まれたプライバシーのない空間のために、家畜や衛生状態による悪臭と騒音にさらされることも多かったようです。
さらに、そうした百姓家では、バードの旅に御伴兼通訳として同行していた日本人青年・伊藤鶴吉も怒り出すほど、食料といえるほどマトモな食事が出ない有様だったとのこと…
食事が粗末だったのは『忘れられた日本人』(宮本常一、1984)にも書かれていましたが(西日本)、それだけ当時の農村は経済的に貧しい集落が多かったということだと思います。
江戸時代から変わらない日本人の性質4つで「日本人は清潔である」旨を紹介しましたが、『日本奥地紀行』では不衛生な生活環境の記述が目立ちます。
おそらく今のように「清潔」になったのは、戦後各地にインフラが整備され、「清潔」という概念が庶民に浸透してからだと思います。
当時は、
「休息できるような清潔な家はなかった。そこで私は、石の上に腰を下し、この地方の人びとについて一時間ばかり考えていた。子どもたちは、しらくも頭に疥癬で、眼は赤く腫れている。どの女も背に赤ん坊を負い、小さな子どもも、よろめきながら赤ん坊を背負っていた。女はだれでも木綿のズボンしかはいていなかった」(『日本奥地紀行』)
という記述から、それがありふれた光景であることを感じさせられます。
バードが石に座って考え込んでしまうほど、その光景は受け入れ難いものだったと想像…
ちなみに、「しらくも頭」とは頭部の皮膚や毛に皮膚糸状菌が感染したもので、戦前の子どもによく見られた症状だそうです。
また「疥癬」(かいせん)とは、ダニがヒトの皮膚に寄生しておこる皮膚の病で、
そうした症状が頻繁に見られたのは、それだけ当時の北日本農村部の生活が経済的に貧しく、
清潔な衣類を手に入れて身に着けたり、日常的に洗濯・入浴したりする習慣がなかったからだろうと思います。
当時は「家屋や衣服、体を清潔に保つ」よりも、家族が食べていくだけで大変だったんですよね…
貧しい農村部では、間引きや中絶が当たり前だったことからも想像できます。
他にも、
- 「農民の住むいくつかの村を通り過ぎたが、彼らは実に原始的な住居に住んでいる。壁土の家で、あたかも手で木の枠に泥をなすりつけた感じである」(『日本奥地紀行』)
- 「毎週一回でも入浴しているだろうかと疑いたくなる」(『日本奥地紀行』)
という記述から、北日本山間部に住む農民の生活は経済的に貧しかったと同時に、その貧しさを特に気にすることもなかったような記述があります。
当時の農山村は各集落が限界集落に近く、他集落の情報も知りにくかったようなので比較対象がなく、経済的に豊かな生活を知らない分、
自分たちの生活が経済的に貧しいだとか、家屋・衣類・体が不潔でみすぼらしいだとか、を認識している農民自体が少なかったのだろうと思います。
ちなみに、当時の日本人の大半は外国人を見たことがありませんでしたから、バードが訪ねる先々で土地の人々が集まっていたようです。
ですがバードは、
「群衆は言いようもないほど不潔でむさくるしかった」(『日本奥地紀行』)
と述べて嫌悪すると同時に、
「ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように、虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう」(『日本奥地紀行』)
と憐れむような記述を残しています。
現代は、そんな明治時代初期~戦後間もない頃と比べると、経済的にはかなり豊かになりました。
衣類は清潔で良質なものが安価に売られており、食べ物も栄養を考慮されたあらゆる選択肢があります。
住まいにおいても、だいたいの住宅が木造かコンクリートで、夏は涼しく冬は暖かい環境を得ることができます(電気代さえ払えば…)。
さらに、外国からもたらされた数多くの治療法や薬によって平均寿命が延び、入浴環境が整備されたこととも相まって、皮膚病や眼病発症率も激減しました。
また、あらゆる機械のおかげで生活環境だけでなく、建設工事現場の労働環境なども格段に改善されました。
虫や悪臭も激減したと思います。
ただ、それらの環境はつい70~100年前に変わり始めたことで、、、
それまでの日本列島農山村に住む人々の大半は、バードが記述したような経済的に貧しい生活を送っていたようです。
もちろん集落や家によって差があったと思いますが、特に自然環境厳しい地域では貧しさも顕著だっただろうと思います…
現代の生活しか知らないと(大抵そうですが)、それが昔から続いてきたことで、これから先もずっとそうだろうという意識を持ちがちですが…
過去にこの列島で当たり前だった経済的貧しさを知ると、その根本原因を解決しない限り、
再び日本列島に暮らす庶民が、経済的に貧しい生活を送るような気がして怖くなることがあります。