以前から夫が東海道を歩きたいと言っていたので、一緒に歩いてみることにしました。
とはいえ、既にネットにはきちんと旧東海道を歩いた方が大勢いらっしゃいますので、私達はなるべく自由に駅から駅を歩きながら、東海道および旧東海道を散策したいと思います。
ちなみに今回は、藤沢から平塚までを歩きました。
東海道とは、徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した翌年の1601年に、江戸-京都間、江戸-大坂間の人馬と情報の道として整備され、伝馬制の制度が敷かれたもの。
ちなみに、東海道に沿って宿場があり、藤沢にも藤沢駅から見て北に藤沢宿がありました。
藤沢宿は1601年、神奈川・保土ヶ谷・平塚・大磯・小田原とともに最初に宿駅に指定された宿で、江戸時代中頃以降は、「大山道」や「江の島道」の分岐点として賑わいを見せていたそうです。
藤沢駅北口を出発し、1号線を西へ歩いて40分で辻堂駅に到着しましたが、日差しが強く暑いため一旦休憩。
休憩後、茅ヶ崎市内中心部を歩いていきます。
少し歩いて休憩した後、神明神社という神社の前を通りました。この他にも、多くの社寺がありましたが、その中には、宿場ごとの飯盛り女(遊女)の墓碑群が残されている寺もありました。
宿場にはたいてい飯盛り女の投げ込み寺があり、遊女たちは死ぬと無縁仏として葬られるのが普通だったそうです。牛馬なみの扱いだったなんて…江戸時代は今以上に人権がない時代だったんですね。
飯盛女は近くの農村や他国から両親の借金の代償として売られて来た者が多かったらしく、旅人の世話や食事の給仕だけでなく、男たちの相手にもなりながら悲しい一生を終えていったそう…25歳まで生きられた飯盛り女はまれだったらしい…本当に酷い時代です。
ちなみに、藤沢から平塚まで行く間に橋を3本渡りましたが、2本目の橋の手前で、旧相模川橋脚という木造の柱が建っていました。
この旧相模川橋脚は、1923年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡だそう。
当時の歴史学者によって、鎌倉時代の1198年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、1926年に国の史跡に指定されたそうです。
また、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認され、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、現在では国の天然記念物となっているそう。
2時間半歩いてようやく平塚市に入りました。9月初旬はまだまだ暑いですね…
相模川を渡っている間、風が吹いてくれたおかげで急激に涼しくなり、平塚駅まで何とか身体がもちました。
それでも、帰りに駅で立ちくらみがしてしまったので、身体にはかなり堪えたようです。日差しも強かったためか、腕も真っ赤に日焼けしてしまいました。次回歩くときは、曇っている日を選びたいと思います(笑)