以前から夫が歩きたいと言っていた東海道を、一緒に歩いてみることにしました。
ネット検索すると、旧東海道は歩かれた方が大勢いらっしゃるので、私達は駅から駅を歩きながら、東海道および旧東海道を自由に散策したいと思います!
基本、日帰りできる範囲は日帰り、泊まる必要がある範囲でも4日以上連続では歩かないようにします。
理由は、足腰を痛めないため!健康第一!
さて東海道とは、1601年に徳川家康が江戸-京都間、江戸-大坂間の人馬と情報の道として整備し、
伝馬制度(てんませいど)を敷いたもの。
伝馬制度とは、自動車や鉄道のなかった時代に、公用の信書や荷物を人馬がリレー形式で目的地まで運んだ制度のことだそうです。
ちなみに今回は、藤沢から平塚まで。
藤沢宿は、1601年神奈川・保土ヶ谷・平塚・大磯・小田原とともに最初に宿駅に指定された宿だそうです。
歴史があるんですね~
まず藤沢駅北口を出発し、1号線を西へ歩いて40分で辻堂駅に到着。
が、日差しが強く暑いため一旦休憩、、、
休憩後、茅ヶ崎市内中心部を歩いていきます。
少し歩いて休憩した後、神明神社という神社の前を通過。
この他にも多くの社寺がありましたが、その中には宿場ごとの飯盛り女(遊女)の墓碑群が残されている寺もありました。
だいたいの宿場には飯盛り女の投げ込み寺があり、遊女たちは死ぬと無縁仏として葬られるのが普通だったそう…
牛馬なみの扱いだったなんて、江戸時代は今以上に人権がない時代だったんだなぁ。
飯盛女は、近くの農村や他国から両親の借金の代償として売られて来た人が多かったらしく…
旅人の世話や食事の給仕だけでなく、男たちの相手にもなりながら悲しい一生を終えていったそうです。
25歳まで生きられた飯盛り女は稀だったというから、江戸時代はずいぶんと酷い時代だったんだな…
ちなみに、藤沢から平塚まで行く間に橋を3本渡りましたが、2本目の橋の手前で旧相模川橋脚という木造の柱が建っていました。
この旧相模川橋脚は、1923年9月1日の関東大震災と1924年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡だそう。
当時の歴史学者によって、1198年に源頼朝の重臣・稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、1926年に国の史跡に指定されたそうです。
そんな昔のことが分かるんだ…
また、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認され、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、現在では国の天然記念物となっているらしい。
2時間半歩いてようやく平塚市に入りました。
9月初旬だからかまだまだ暑い…
相模川を渡っている間、風が吹いて急激に涼しくなり、平塚駅まで何とか身体がもちました。
それでも帰りに駅で立ちくらみがしてしまったので、身体にはかなり堪えたようです…
日差しも強かったためか、腕も真っ赤に日焼けしてしまいました…
次回歩くときは、曇っている日を選びたいと思います。