先日下田へ行ってきたのですが、下田市内にある了仙寺に併設された「Mobs 黒船ミュージアム」で、開国に関する興味深い事柄を知ったので記しておきたいと思います。
了仙寺は、下田繁栄の基礎を築いた下田奉行・今村伝四郎によって、1635年に創建された日蓮宗のお寺で、上陸したペリー一行の応接所ともなっていた場所です。
また、林大学頭(林復斎)とペリーとの間で、日米和親条約付録下田条約が調印された場所でもあり、その後、玉泉寺とともにアメリカ人休息所となりました。
さて、「Mobs 黒船ミュージアム」ですが、1・2階に展示された開国に関する重要資料の数々は、撮影禁止なのも頷けるほど興味深いものでした。
所蔵資料は2400点もあるそうですが、今回展示されていたのは約数十点。
それでも重要資料の数々にテンションが上がってしまい、独り言を連発してしまうほどで、このレベルの資料があと数千点もあるなんて…と仰天しきりでした。
展示資料以外にも、開国時の様子を分かりやすくまとめた映像(3部作)もあり、ついつい長居してしまいました。
興味深く思った最大の理由は、展示内容の大半が、学校教育で習った内容とは異なっていたからです。
学校教育で習った開国前後の内容は、ペリーが黒船を含む巨大船を数隻連れて下田に訪れ、大砲とともに徳川幕府を威圧して、無理やり開国させたというものでした。
が、実際は船の生産が間に合わず、ペリーがアメリカを出発した時の船は1隻のみで、その後、上海と香港で船を追加して日本に向かったのです。
また開国交渉も林大学頭(林復斎)の論破によって、終始日本ペースで進められていました。
林大学頭は幕府の儒学者で、幕府の外交史料を編纂し、当時の世界情勢を把握していました。
そのため、ペリーとアメリカについての正確な知識を持っており、どういう意図と状況をまとってペリーが日本に開国を迫ってきていたのかも、頭に入っていたとされています。
1853年に浦賀にやってきた黒船。ペリーが開国を要求した理由は、以下の3点からでした。
- 日本近海にいるアメリカ捕鯨船が燃料や水を補給できる港の確保
- アメリカの船が難破した時のアメリカ人漂流民の保護
- 日本との直接の交易
1については、アメリカは産業革命中で機械に使う大量の油を必要としていました。
そのため、クジラから取れる鯨油を求めて数多くのアメリカの捕鯨船が、伊豆諸島、小笠原、カムチャッカなど日本近海で活動していたそうです。
そして、鯨油の抽出には大量の水と薪が必要で、それを補給する港として日本が欲しかったのです。
2については、アメリカ船が難波しその船員たちが日本の沿岸で保護されることもあり、彼らは長崎まで移送され長崎から外国船に引き渡され、アメリカ船に移されたそうです。
そうしたアメリカ船員の安全を日本が約束することを求めました。
3については、長崎にはアメリカから毛皮などがオランダ船によって持ち込まれ、日本は金銀でそれらを購入していました。そこでアメリカは日本と直接交易できればと考えていました。
1854年に再びペリーが来た時、日本側全権として交渉を担当した林大学頭は、
まず上記1について、ペリーが「薪水補給のため、横浜・浦賀を含む7港を開港して欲しい」と求めたのに対し、
「最初に渡された文書にそれらの記載はない」こと、また「横浜・浦賀は将軍に近いため開港できない」ことを伝えた上で、
薪水補給のためにアメリカ船にとって適切なのは下田・函館であるとして、その2港を開港することを伝えました。
同時に、上陸するアメリカ船員の行動範囲は、下田では下田湾の中心から28km圏内、函館では函館から16km圏内とする旨も伝えました。
この下田湾中心から28km圏内というのは、天城山手前までで韮山反射炉や東海道を見られないちょうどいい範囲でした。
また、下田は海路でも江戸から1日、ペリー蒸気船でも半日、陸路では200km、徒歩で5日以上かかる僻地であるため、江戸防衛上からも日本にとって好都合だったのです。
次に2についてですが、ペリーは漂流民の安全確保を約束するよう求めましたが、それは以前にアメリカ難破船のアメリカ船員が牢屋に入れられ、そのうち1人が亡くなったことに由来していました。
が、林大学頭は「日本は11年前から薪水給与令によって漂流民の安全確保に努めている。以前保護したアメリカ船員は、牢屋に入れたのではなく彼らが上陸後にあちこち行くので一か所に留めておいただけで、長崎移送中に1人が脱走したため牢屋に入れたことはあったが、亡くなったのはアメリカ人同士の喧嘩が原因である」旨を伝えました。
また3については、隣国・清がアヘンをイギリスから押し付けられ、断ったことで戦争が起こって植民地化されたことを知っていたため、
日本も交易をOKすれば同様の目に遭うことを予想し、「日本は国内で完結できる市場を持っているので交易は必要ない」と交易を拒否しました。
もしも徳川幕府に林大学頭がいなければ、このような交渉は不可能だったでしょうし、
日本の国益を損うだけでなく、その後の日本の成り行きも全く違ったものになっていたはずです。
軍事力にビビらず対等に交渉する日本側に対して、ペリーも他のアジア諸国とは違う印象を覚えたはずです。
ちなみに、「Mobs 黒船ミュージアム」で当時のマスコミである「瓦版」を拝見したのですが、
事実ではない情報を面白おかしく庶民に流布している実態は、現代におけるマスメディアと変わらず呆れてしまいます。
例えば、ペリーを含む外国人は妖怪のような姿で描かれていたり、「外国人に〇〇してやった」という作り話も描かれたりしていました。
それだけ当時の日本人が外国人との接触がない生活に置かれ、外国人とはどういう外見かを知らなかったことを表しているのだろうと思いますが、
面白ければ何でもいいという視点で情報を垂れ流す姿勢には辟易します…
興味深い事実を数多く知れた下田滞在でしたが、あと数回「Mobs 黒船ミュージアム」を訪れて、重要資料の残りをじっくりゆっくりと拝見したいです。