箱根湯本から元箱根までの11.3kmを歩いた①【東海道を歩く】の続きです。怪しい神社の別院を過ぎて歩いていると、右手にまたもや須雲川自然探勝歩道が現れました。そしてその横には、割石坂の説明書。
割石坂とは、曽我五郎(曽我兄弟の弟。曽我兄弟については箱根湯本から元箱根までの11.3kmを歩いた①【東海道を歩く】に記載)が富士の裾野に仇討ちに向かう際、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真っ二つに切り割った場所。
割石坂の傍には、接待茶屋についての説明書もありました。
江戸時代後期、箱根権現の別当職である如実は、箱根八里を往復する旅人に湯茶を、馬には草・藁わら・穀類などを施し大変喜ばれていましたが、資金が続かず行き詰っていました。
そんな如実は、江戸呉服町の加勢屋与兵衛らの協力を得て、施行の断続を幕府に願い出、1824年にようやく許可が下りました。再開にあたって、新しく設置する施行所を畑宿と須雲川に希望していましたが、2か所とも街道宿駅の出入口の休息所であったために許可されず、東坂は割石坂のこの辺りに、西坂は施行平に設置されました。
ちなみに、箱根湯本から元箱根を経て箱根峠までの上り坂を箱根東坂、箱根峠から三島宿までの下り坂を箱根西坂と呼びます。
畑宿まで0.7kmの表示。湯本からはようやく5km歩いてきたところ。まだまだ先は長いです…ゆえに、ここで昼食にしました。
そんな中、慣れた足取りの、私よりも随分と先輩の方々とお会いしました。私達のような軽装ではなく山歩きの装いのご夫婦でした。が、1日の行程を伺ってビックリ…当時の東海道歩きに劣らない歩行量です…東海道歩きに対する意気込みの差を見せつけられました。
そんな出会いを経ながら少し歩くと、歩道のある道が現れ歩きやすくなりました。が、どこまでも続く上り坂に正直足はキテいます…
そんな坂をえっちらおっちら進んでいると、左手に箱根旧街道と書かれた木柱と石畳が出現。きっと今歩いている732号線をショートカットできる道なんでしょう…もちろんショートカットはしませんが。旧街道は時々732号線と合流するので、こうして少々様子を窺い知ることができます。
ただどちらの道を通るにせよ、この急カーブを12回もこなさなければなりません…箱根寄木細工の里である畑宿まではあと少しのようです。
またもや歩道がなくなります…道脇には朽ち果てかけた標識とガードレール…不気味です。
そんな道を歩いていると民家が見え、そして本陣跡に到着。説明書には本陣跡、旧茗荷屋庭園、ハリスが箱根関所ですったもんだした話、に関することが書かれていました。
本陣跡としての雰囲気そのまま、わざわざ置かれている感の強い街灯。
旧茗荷屋庭園に関しての説明書。
畑宿の名主である茗荷屋畑右衛門の庭は、山間から流れる水を利用して滝を落とし、池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭園で、当時街道の旅人達の評判になっていました。ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆していたそうです。
民家が続く道を歩いていると、畑宿に到着。
すぐ右手には駒形神社という神社。
古くは「駒形権現(こまがたごんげん)」「荒湯駒形権現(あらゆこまがたごんげん)」と呼ばれ、地元の住民には古くから「駒形さん」と親しまれてきたそうです。
畑宿に関する説明書。確かに周辺には寄木細工のお店が数軒あり、少し行った所には観光バスも数台停まっていました。ただ、想像よりもこじんまりとした宿でした。
畑宿に関する説明書。
畑宿は郷土の伝統工芸である箱根細工が生まれ育ったところで、畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代まで遡るとのこと。江戸時代の畑宿は箱根旧街道の間の村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物のそば、鮎の塩焼き、箱根細工が、旅人の足を止めていたようです。
今回は732号線を歩いているので立ち寄りませんでしたが、箱根旧街道一里塚も見えました。入口付近には公衆トイレもありました。
その傍には、守源寺というお寺もありました。
守源寺とは1661年に創建された日蓮宗の有名なお寺で、度々の災害で本堂を失い1930年の豆相大地震の後再建され現在に至っているとのこと。箱根七福神の大黒天が祀られているらしい。
入口から見た守源寺。
そんな畑宿を過ぎて上り坂を進んでいると、右手には畑宿寄木会館が現れました。
ここは寄木細工を展示・即売する施設で、寄木細工製作の実演を見ることができるほか、体験工房もあり寄木細工職人の指導により、用意された部材で寄木のコースターを作ることもできるそうです(予約制)。
箱根登山バス「上畑宿」バス停を通過。スマホ以外にバス路線案内で現在地を確認できるので、不安なく歩き進めていけます。路線図で見ると、箱根湯本からこれだけ歩いたんだなぁと感慨深いです。
1号線の下を通っていきます。
上り坂はまだまだ続きます…運動不足がたたってふくらはぎが痛い…ので休み休み進みます。
相変わらず空は快晴。こんな天候の中歩いていると、心身ともに洗われてくるようです。
「橿の木坂」(かしのきざか)バス停を通過。急カーブは続きます。
そんな急カーブ+急な上り坂に嫌気が差したのか、夫の「ショートカットできるかも」という安易な考えにより、あろうことか石畳の道を進むことを決断。大丈夫か???
整備された階段を登り切ると、元箱根までの案内版がありました。見晴橋という小さな橋を渡ります。
新設された箱根旧街道の歩道とのことで、甘酒茶屋まで1.3km、元箱根までは3km。
少々落ち葉に隠れていますが、新設されただけあって歩きやすい石畳です。手すりもあって整備されている感満載。有難い限り。
突如として右手に上り階段が現れましたが、その先には見晴茶屋(みはらしぢゃや)があるようです。が、これ以上上るのは避けたいので、ここは景色を拝まず先を急ぎます。きっと名前の通り、見晴らしが素晴らしいのでしょう。当時の旅人たちは、ここで束の間の休息をしたのかもしれません。
石畳脇には、雲助についての説明書。雲助とは、江戸時代に宿場などに居て駕籠をかついだ住所不定の人夫のこと。彼らは、東海道の旅人を助ける不可欠な存在だったそうです。
道が少々ひらけた場所に設置された椅子。こんな風に途中で休めるといいのですが、きっと多くの人は先を急ぐことでしょう。
先ほど通った見晴橋と似た山根橋を渡ります。
標高1000mくらいの所にいるはずですが、森の中をずっと歩いていたため景色を拝む機会がなかなかありませんでした。が、ここにきて少々見ることができました。
快晴でも森の中までは全面的に光が入ってきませんから、少々心細い雰囲気。1人で歩くのはなかなか根気のいることかもしれません。そんな風に思っていたら、正面から人が。
何やら海外からの観光客のようで(手ぶらだったので)、「コンニチハ」と足取りの軽い西洋の方と何度もすれ違いました。異国の地でこんな過酷観光?するなんて、基本の筋肉量・体力の違いを見せつけられた思いでした…
元箱根まで2.7km。
甘酒橋を渡ります。
大小問わず石畳になりきれていない石があるので、それをできるだけ脇に寄せつつ進んでいきます。ちょっとのことで足をとられかねないので注意。
またもや急坂が出現。猿滑坂(さるすべりざか)という坂のようですが、元あった場所とは違うようです。
きちんとした説明書。猿といえどもたやすく登れなかったことから、この坂の名の由来となっているようです。きっと元の坂はもっと急坂だったのでしょう。
そんな険しい石畳を上った後は、732号線へと繋がる現代の急階段。もうへとへと…
そんな訳で、須雲川自然探勝歩道と旧東海道石畳はもはや十分すぎるほど味わい尽くしたので、これ以降は再び732号線を歩きます。長くなったので、元箱根までのラストスパートは箱根湯本~元箱根の11.3kmを歩いた③【東海道を歩く】へ。