江戸時代から変わらない日本人の性質4つ

文庫とはいえ約600ページにも及ぶ『逝きし世の面影』をお正月に読了しました。

この本に関しては以前から何度か紹介していますが、内容としては江戸時代~明治時代初期に日本列島を訪れた外国人の文献内容をまとめたものです。

当時来日した欧米人から見た日本人とその暮らしぶりが分かる本で、読んでいると「江戸時代から日本人は変化していないのでは?」と思う点がいくつか見えてきます。

その点が個人的に新鮮だったので、ご紹介したいと思います。

 清潔さ

現代において、海外から日本へ帰国すると感じる日本の清潔さ。

他国の人々からも常々「日本は清潔」という指摘を受けますが、そんな性質は江戸時代から続いているもののようです。

以下は、江戸時代後期に下田近郊の柿崎を訪れたアメリカ人、タウンゼント・ハリスが記した『日本滞在記・中巻』における文章です。

  • 「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」
  • 「家屋は清潔で、日当たりもよくて気持がよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」

ハリスは貿易商としてインド、東南アジア、中国をめぐった人なので、それらにおける庶民生活と比較していた面が大きいだろうと思います。

が、「世界のいかなる地方においても」という記述からも想像できるように、欧米諸国の労働者における生活環境よりも清潔だと感じていたようです。

また、東北地方を旅行していたイギリス人探検家イザベラ・バードは、『Unbeaten Tracks in Japan,2 vols, New York, 1880,vol.1』にて、

「貧民階級の衣類や家屋がどんなに汚くても、料理のしかたとその料理を供するやりかたは極端に清潔なのだ」

と記述しています。イザベラ・バードは他にも、日光や新潟の街路が掃ききよめられてあまりにも清潔なので、泥靴でその上を歩くのが気が引けたと言っています。

そしてイギリス人ジェフソン・エルマーストも『Our Life in Japan』で、

「極端に清潔だというのは彼らの家屋だけの特徴ではなく、彼らの食べもの、料理のしかた、料理の出しかたの特徴でもある」

と述べています。

他にも、プロシャ人画家アルベルト・ベルクも『オイレンブルク日本遠征記・上巻』で、街路の清潔さを「汚れた長靴で立ち入るのをはばかるほどだ」と言っていますから、地域差があるにせよ、当時から日本社会は総じて清潔だったといえそうです。

質素な生活を好む

江戸時代は、幕府から繰り返し奢侈禁止令(しゃしきんしれい)が出されたこともあり、どの階級でも概ね質素な生活をしていたようです。

それが江戸時代以降の日本人の性質をつくった部分もあったかもしれません。

そんな時代の庶民層を見ていくと、幕府領(幕府に仕える)と大名領(藩主に仕える)で年貢が異なり、幕府領のほうが大名領よりも年貢が安かったことから、幕府領に暮らす庶民のほうが生活が多少豊かだったといわれています(もちろん大名領でも豊かな暮らしをしているところもあったようですが)。

とはいえ、当時来日した欧米人から見れば、豪華な物品を持たない質素な日本人の暮らしは、経済的に貧しい生活そのものでした。

が、当の日本人はそうは感じておらず、

「人びとはみな、雨露をしのぐ屋根ばかりか、食べる米ぐらいは持っているぞといいたげな顔つきをしていた」(イギリス人、ラザフォード・オールコック『大君の都・中巻』)

というように、庶民でも満足した表情で豊かに暮らしていたようです。実際、当時は食事面では概ね困っていなかったようなので、それも表情に反映されていたのでしょう。

また、プロシャ人のオイレンブルク伯も言っているように、「日本人は要求が低くて、毎日の生活が安価に行われてい」たことや、アメリカ人のイライザ・シッドモアも述べているように、「どの文明人を見回しても、これほどわずかな収入で、かなりの生活的安楽を手にする国民はな」かったこととも関係していると思います。

そんな質素な生活をしていたのは、庶民層だけでなく上流階級も同じで、幕末に来日した外国人が揃って、「日本では上流も下層もあまり変わらぬ家に住んでいる」印象を持っていたことからも明らかです。

いずれにしても当時来日した外国人の大半は、日本人が、大半の外国人が求める物質的な豊かさ(贅沢にふけるとか富を誇示するとか)を追及しない様に驚いていていたようです(奢侈禁止令が出ていたことや、贅沢を追及する経済的余裕がなかったことも影響していると思いますが)。

例えば、ラザフォード・オールコックは『大君の都・中巻』にて、

  • 「これほど原始的で容易に満足する住民」は初めて見た
  • 「気楽な暮らしを送り、欲しい物もなければ、余分な物もない」

と感じていただけでなく『大君の都・上巻』では、

「われわれが安楽に暮すために必要不可欠だと考えているもの」が、日本人の生活には欠如している

とまで言っています。

同様にハリスも『日本滞在記・下巻』で、

「日本人の部屋には、われわれが家具と呼ぶような物は一切ない」

と書いているのです。

さらにイギリス人のバジル・ホール・チェンバレンは『日本事物誌・2』で、日本には

「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」

と言い、日本で貧は人間らしい満ち足りた生活と両立し得る旨の記述を残しています。

とはいえ、それは当時皆が等しく貧しかったからこそ可能なわけで、現代ではなかなか両立し得ないものでもあると思います(もちろん、社会から完全に断絶された村落での暮らしであれば可能かもしれませんが)。

しかし、私は現代日本人も当時の日本人と同じ性質を覚えずにはいられません。というのも、日本ではお金持ちであっても質素な暮らしを好むケースが見受けられるからです(大金持ちの暮らしでは不明ですが)。

もちろん、そうしなければ近所や世間からバッシングを受けるとか、戦争を経験した世代から贅沢を咎められるからとかもあるかもしれません。

が、それだけでなく日本人の内面には、長年従ってきた奢侈禁止令によって潜在的に植え付けられた「贅沢を追及してはいけない」という意識が、豪華な装飾品ではなく質素な物を好む価値観へと誘導しているような気がしてならないのです。

忍耐強い勤労

これは江戸時代に来日した欧米人が、当時の日本で主要産業だった農業に従事する庶民の姿を見て、揃って口にした言葉です。

当時の日本は地域差はあったものの、全国各地の農地はよく耕されており、外国人から見ればいかにも過酷な労働にもかかわらず、それを辛抱強くやっていた様子が記述されいます。

  • 「彼らの勤勉には限りがないし、安息日もなく、仕事がない時に休日をとるだけだ。彼らの鋤による農作業はその地方を一個の美しく整えられた庭園に変え、そこでは一本の雑草も見つからない。彼らはたいそう倹約家だし、あらゆるものを利用して役立たせる」(イザベラ・バード『Unbeaten Tracks in Japan,2 vols, New York, 1880,vol.1』)
  • 「五マイルばかりを散歩した。ここの田園は大変美しいーいくつかの険しい火山堆があるが、できるかぎりの場所が段畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。これらの段畑中の或るものをつくるために、除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある」(下田近郊の柿崎を訪れたハリス『日本滞在記・中巻』)
  • 「郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている」(下田を訪れたプロシャ商人、リュードルフ『グレタ号日本通商記』)

とはいえ、農業が主要産業となるほどの発展を見せたのは、江戸時代に入ってから。

それまでは主に耕作には家畜の力が用いられており、生産性も高くありませんでした。

それが人間の力を使った鍬(くわ)や鋤(すき)による耕作へと変わっていく中で、生産性向上と「忍耐強い勤労」も生まれていったようです。

ただその反面、

「まったく日本人は、一般に生活とか労働をたいへんのんきに考えているらしく、なにか珍しいものを見るためには、たちどころに大群衆が集まってくる」(ラザフォード・オールコック『大君の都・中巻』)

というように、忍耐強い勤労をすることはするものの、適度に働くレベルであったことを示唆している記述もあります。

現代のように過労死するようなレベルの働き方ではなく、江戸時代には生活を楽しもうとする労働者の姿があったようなのです。

「日本の労働者は働く時は唸ったり歌ったりする」(アメリカ人、エドワード・S・モース『その日・1』)

というように、労働者自身は労働を、賃金を得るための苦役として捉えていたのではなく、労働者自身の生きがいや自発的活動として捉えていたらしく、例え労働方法が非能率的な形態であっても、それを変えることはさせなかったというのです。

それは当時の庶民階級の労働者にとって、各労働が喜びと自負に溢れていたこととも関係しているかもしれません。

また、他民族とは違い当時から日本人には「質素な生活を好む性質」があったせいか、

「必要なものはもつが、余計なものを得ようとは思わない」(ジョルジュ・ブスケ『日本見聞記2』)

意識のために、現代日本人の「忍耐強い勤労」レベルには、到底及ばない労働者の姿があったことも事実のようです。

とはいえ、

「日本人の働き手、すなわち野良仕事をする人や都会の労働者は一般に聡明であり、器用であり、性質がやさしく、また陽気でさえあり、多くの文明国での同じ境遇にある大部分の人より確かにつきあいよい。彼は勤勉というより活動的であり、精力的というより我慢づよい。日常の糧を得るのに直接必要な仕事をあまり文句も言わずに果している。」(フランス人弁護士、ジョルジュ・ブスケ『日本見聞記2』)

というように「忍耐強い勤労」を果たしていたことは事実であり、当時の暮らしが安価に行えたことと相まって、庶民の大半が幸福な表情で暮らせていたことにも繋がっていると思います。

付和雷同的な集団行動癖

これは、『日本事物誌・1』でチェンバレンが指摘していた点でもありますが、それ以前に日本を見聞していたポルトガル人やスペイン人の記述からも、同様の指摘があったようです。

そんな性質を、来日した外国人が繰り返し指摘するようになった理由は、以下の記述から伺い知れると思います。

  • ムラヴィヨフ艦隊の将兵は、江戸で盛大な投石に見舞われた。群衆は彼らを追跡し、包囲し、石を浴びせたのである(ヴィシェスラフツォフ『ロシア艦隊幕末来訪記』)。
  • 両国橋で「おんな唐人」と叫びながら殺到する群衆にとり囲まれ、あやうく逃れたことがあった。彼はこのとき十五歳、女と見間違えられたのだった。この両国橋は民衆が外国人と見ると唾を吐きかけるというので、かねて悪名高い場所だった(ジーボルトと一緒に江戸入りしたジーボルト長男のドイツ人、アレクサンダー・ジーボルト『ジーボルト最後の日本旅行』)。
  • 浅草で、「下層民数千人」から投石を受けた。護衛の役人は何もしてくれず、ポルスブルックは「今にも踏み倒されるのではないか」という恐怖を感じた。二人はさいわい重傷は負わなかったが、ハラタマが背に受けた傷は激しく痛んだ(開成所化学教師ハラタマと浅草へ行ったオランダ人、ポルスブルック『ポルスブルック日本報告 一八五七-一八七〇』)。

他にも、富士山麓の上吉田を訪れたイギリス人のヘンリー・フォールズも群衆から泥や石を投げつけられたそうで、

彼が群衆のリーダーらしい若者たちに、この地方の名高い風景を見ようとやって来た穏やかな外国人にどうしてこんな仕打ちをするのかと問うと、やっと投石はやんだ。あとで聞いたところでは、最近訪れたフランス海軍士官の行状がこの投石の原因であるらしかった(『Nine Years in Nippon Reprinted edition 』)。

という記述からも、江戸時代の庶民は事実を確かめもせずに付和雷同的な集団で、1人や2人を攻撃する性質があったことが分かります。

もちろん、それは庶民がそれだけの嫌悪感を抱くことを、当時の外国人(ほぼ欧米人)がしていたことにも原因があると思います。

当時発揮されていた「付和雷同的な集団行動癖」の大半は、日本の習慣や文化を理解していない外国人が、庶民に対して乱暴・横暴な態度をとった場合や、日本人以外の人種を知らない・見たことがない庶民が、外国人から危害を加えられるのではないか?と外国人を恐れた場合に発揮されていたようなので、日本人の生活に土足で踏み込んだ外国人にも非があったといえます。

当時外国人と庶民とのトラブルは尽きず、官憲が通達を出しても、当時の民衆は官憲の言いなりになるような存在ではなかったため、長崎や生麦でも人をあやめる事件が起きています。

そうは言っても、付和雷同的に集団で数人の異端者をはじき出そう・攻撃しようとする性質は現代にも受け継がれており、それは異端者を叩きのめそうとする強い流れとなっているようにも感じます…

例えば、家庭、学校、会社、ネット、大手メディアなどで、寄ってたかって1人を叩く構図は、付和雷同的に「皆が言っているから正しいだろう」という流されやすさによって、例え間違った方向でも突き進んでしまう危険性をはらんでいると思います。

また、その矛先が元凶である組織には向かず、個人に向いてしまう点も怖いです。

日本人は、支配者によって誤らせられ、敵意をもつようにそそのかされないときは、まことに親切な国民である」(ラザフォード・オールコック『大君の都・中巻』)

という記述からも読み取れるように、日本人は「付和雷同的な集団行動癖」によって、力のある者から敵意をもつように刷り込まれてしまうと、誤った方向へも突き進む可能性が高いといえそうです…

とはいえ、一致団結して何か1つの目的を達成しようとする際には、信じられないような成果を上げることができる性質でもあると思うので、善い方向へ作用すれば好ましい性質なのかもしれません。

まとめ

初めのうちは、現代庶民が生きづらくなっている原因を知りたくて、江戸時代や当時の日本人のことを調べていました。

が、当時来日していた欧米人の記述を読んでいくと、江戸時代の庶民が、現代からは想像できないほど幸福に・自由に・陽気に暮らしていたり、愛らしい人柄が想像できたりしてきたので、生きづらさは江戸時代や日本人の本質に原因があるのではなく、明治時代以降の社会環境に適応する中で生まれたものなのではないか?と考えるようになりました。

もちろん、江戸時代にマイナス面がなかったとは言い切れません。

医療法の知識不足で寿命が短かったり皮膚病が蔓延していたり、大名領に暮らす村落の中には貧しすぎる生活を強いられる人々があったり、現代以上に人権意識が低いことによる口減らしがあったり、人権無視な工事建設があったり、粗っぽくて厳しい司法行政があったり…様々な問題があったと思います。

それでも物質的に皆が平等に貧しく、現代のような交通手段やメディアなどもないため他国・他地域・他村落の情報が入りにくく、便利さや富を追及できる状況になかったために、庶民階級の人々は概ね陽気に暮らせる環境にあったと想像できます(それがいいとは思いませんが)。

それゆえ、現代の日本社会が庶民にとって生きづらくなっているのは、日本人の本質にそぐわない社会制度を無理やり導入し、結果、それに適応するための努力によって日本人自ら生み出した状況だといえるのかもしれません。

江戸時代に日本人の本質を指摘したチェンバレンいわく、日本人には、

知的訓練を従順に受け入れる習性や、国家と君主に対する忠誠心や、付和雷同を常とする集団行動癖や、さらには外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向(『逝きし世の面影』p17)

があるとのこと。

もし日本人に「国家と君主に対する忠誠心」が残っているとすれば、日本政府がおかしな組織である限り、そこに存在する社会もそこに生きる人々もおかしな状態のままなのかもしれません…