江戸時代庶民は現代庶民よりも自由に暮らしていた5つの理由

最近、繰り返し紹介している『逝きし世の面影』。

明治時代初期に来日した外国人による、当時の日本人に関する興味深い記述が掲載されていて、読めば読むほど「これまで学んできた歴史は何だったのか?」と思えてきます。

中でも驚いたのは、江戸時代の大人は陽気で機嫌が良く、天真爛漫で無邪気だったでも書いたように、江戸時代庶民が現代庶民とは異なり、生き生き・のびのびと自由に暮らしていた点。

検定教科書を含む公立学校教育で習った内容では、身分制度があって飢饉があって苦しい生活だった、みたいな感じだったので「全然違うじゃん」と呆気にとられました。

確かに苦しい生活を送っていた集落もあったようですが、そんな生活しかできないなら250年も同じ時代が続くわけがありませんよね。

というわけで、現代庶民よりも江戸時代庶民のほうが自由に暮らしていた理由を、当時来日していた外国人の記述などを引用しながら見ていきたいと思います。

庶民生活に介入しなかった徳川幕府

江戸時代に訪日した外国人はほぼ欧米人でしたが、その欧米人たちが揃って指摘したのが、庶民生活における自由度の高さ。

まず、イギリス人であるラザフォード・オールコックが書いた『大君の都・上巻』に、アメリカ人宣教師ダニエル・J・マクガワンが指摘した内容が掲載されていますが、そこには

「日本は専制政治に対する世界最良の弁明を提供している。政府は全知であり、その結果強力で安定している。その束縛は絶対であり、あらゆる面をひとしく圧している。しかるに、社会はその存在をほとんど意識していない

という記述があります。

江戸時代の政府は、庶民を監視束縛しているにも関わらず、庶民はその存在をほとんど意識していなかったというのです。

また、プロシャ人画家のアルベルト・ベルクも『オイレンブルク日本遠征記・上巻』で、

「人民はたえざる監督の結果、抑圧され疑い深くなったと信ずべきなのに、実はまったく反対に、明朗活発、開放的な人民が見出させる

と述べています。

もし江戸時代の政府が庶民に対して、存分に権力を振るっていたら、明朗快活で開放的な庶民の姿は見られたでしょうか?

むしろ庶民が明朗快活で開放的だったのは、政府の介入が少なかったからだといえる気がします。

さらに、オランダ人のカッテンディーケは『長崎海軍伝習所の日々』で、

「日本の下層階級は、私の看るところをもってすれば、むしろ世界の何れの国のものよりも大きな個人的自由を享有している。そうして彼等の権利は驚くばかり尊重せられていると思う」

と述べ、江戸時代の庶民が他国の同階級民と比べて、大きな自由を生まれながらにして権利として得ており、その権利を社会が尊重していることを指摘しています。

藩や政府は庶民に対して権力を持たなかった

それは現代とは違い、江戸時代の各集落には情報も限定的にしか入ってこなかったため、

政府が庶民と関わりを持つ機会自体が少なく、介入や管理統制できるだけの力を持っていなかったからではないか?と予想します。

それはカッテンディーケも指摘していて、「日本政府は民衆に対して、あまり権力を持っていない」「政府がいかにその臣民の権利を尊重するか」を述べています。

以下は、それを表す『逝きし世の面影』における記述です。

  • 幕史は外国人に対してだけ弱腰だったのではない。彼らは「例えば甲と乙との町の住民の間に争いが起こった場合には、往々町中の恐ろしい闘争となり、闘争の後には幾人かの死人が転がっているというような騒動が起きても、決してそれを阻止することがない」
  • オランダ日本駐在全権領事官ドンケル=クルティウスが、出島拡張の一案として、町との境になっている掘割の埋立てを提案したとき、奉行岡部駿河守長常が、そうすれば「近所の民家はすべてその所有する艀の溜り場を失うことになるからという理由で」拒んだ *艀(はしけ)

どうやら幕藩権力は、年貢の徴収、一揆の禁令、キリシタンの禁圧といった国政レベルの領域においては、集権的な権力を発揮していたようですが、

一方で民衆の日常生活領域には、やむを得ない場合を除いては、できる限り立ち入るのを避けていたようです。

それは当時庶民の共同体には、庶民による自治組織があり(今も存在する地域があるかもしれませんが)、

その組織が担う自治領域においては慣習法的権利として、幕藩権力といえどもみだりに侵害することは許されない性質があったからのようです。

そして、そんな村や町の共同体もしくは職業上の共同体に属していれば、庶民は自治組織によって守られ、幕藩権力からの侵害をまぬがれ自由でいられたわけです。

黒い組織をチラつかせながら庶民の自由を奪い続ける明治時代以降の政府とは、えらい違いです…

江戸時代は刑罰の苛酷さも含めて、建前上厳しい印象を受けがちですが、「建前の不自由さが実際の運用によって大いに緩和されていた」り、

「表向き禁止されていることに、さまざまな抜け穴が設けられてい」たり等(渡辺京二『逝きし世の面影』)、実際には各現場で様々な配慮がなされていたので、そこまで厳しい面はなかったようです。

また、幕藩領主はムラの内部には立ち入らず、年貢の徴集は村請制というムラの自己責任に依存していたことも分かっています。

そう考えると、江戸時代における幕藩権力には建前と本音でかなりの乖離があり、庶民生活も意外に自由だったことが想像できると思います。

江戸時代の身分は「職能」だった

近年、江戸時代の身分制度に対する認識も改められているようですが、江戸時代の身分は奴隷的屈従を意味するものではありませんでした。

むしろ、各身分のできることとできないことの範囲を確定し、実質的にはそれぞれの身分における人格的尊厳と自主性を保証するものでした。

つまり、当時における身分とは「職能」であり、各社会の中で受け持っている働きを職業として表すものだったのです。

また尾藤正英氏によれば、江戸時代の社会構成原理とは「役の体系」と捉えられており、この「役」とは、

個人もしくは家が負う社会的な義務の全体」であって、徳川期においては、身分すなわち職能に伴う「役」の観念にもとづいて社会が組織されることによって、各身分間に共感が成立し、各身分が対等の国家構成員であるという自覚がはぐくまれた

というものです。

確かに東海道を歩いていると「ここは代々、〇〇家が整備or管理or運営した」等という建物や土地によく出会いますが、それはこの「役」によるものだったようです。

それは、江戸時代における身分が流動的であったこととも繋がります。

農民から武士や町人になったり、武士から農民や町人になったりするのが一般的だった江戸時代は、各身分が各藩において対等な構成員であるという自覚があったからこそ、実現可能な社会だったともいえます。

ゆえに、江戸時代における身分とは、社会の中で個人や家が果たすべき義務を職業として表したものであり、

庶民は各身分に所属し各職業を全うすることにより、快適な生活環境や自由などを得られるメリットがあったといえそうです。

上流階級と下層階級は接点がなかった

そんなゆるやかな身分制度ですが、『長崎海軍伝習所の日々』でカッテンディーケは、

日本では下層民が「全然上層民と関係がない」と指摘し、上層民たる武士階層は「地位が高ければ高いほど、人目に触れずに閉じ籠ってしまい」、格式と慣習の「奴隷」

になっていると指摘しています。

一方そんな武士と比較して、

「町人は個人的自由を享有している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの国々でも余りその比を見ないほどの自由である」

という記述があるとおり、町人はかなり自由な生活をしていたことがうかがえます。

さらにカッテンディーケは、法規は厳しいが裁きは公平なので、町人は「法規と習慣さえ尊重すれば、決して危険はない」生活を営めたとも述べています。

またそれは農民生活にも表れていて、

農村には原則として武士は存在していなかった。この意味では、江戸時代のムラは、領主の存在しない純粋な農林漁業者の生産者集団なのである。少なくともムラは日常的に武士の武器による暴力支配からはまぬがれていた」(佐藤常雄『貧農史観を見直す』)

というのです。

検定教科書を含む公立学校教育では、武士が道を歩いていると農民や町人などは道を譲ったり、武士は「切り捨て御免」そのままに振る舞っていたと習いましたが、実際には武士は庶民との接触をほとんど持たなかったのです。

つまり、江戸時代の日本では上流階級の方が窮屈な生活を強いられ、庶民のほうが自由な生活を送っていたといえそうです。

農民は高い独立性・自主性を享受していた

そんな江戸時代の庶民生活では、前述したように各村や町で庶民による自治組織が機能しており、自治領域には幕藩権力は立ち入ることができませんでした。

それだけでなく、

「農民は宗教上でのさまざまな束縛から解放されており、ムラのしきたりにそむかないかぎり、自家の農業経営であれ日常生活であれ、自由にふるまうことができた」(佐藤常雄『貧農史観を見直す』)

そうです。

つまり、各村や町における共同体で与えられた義務を果たす構成員として属し、その共同体のしきたりにそむかない限りは、自由な生活が保障されていたわけです。

江戸時代に日本を訪れた欧米人は、日本の農民のほうがヨーロッパにおける大半の農民よりも幅広い独立性を享受していると指摘しています。

『亡命ロシア人の見た明治維新』でメーチニコフは、

「一般的にこの地の農民は、自分たちの生活圏外で生起するすべての事柄に冷やかな態度をとる、孤立した世界を構成しており、彼らはあらゆる新制度に不信感を抱き、滅多なことでは動揺しないが、ひとたび動き出すとみずからの権利を徹底して守りぬくことができる」

と述べています。

現代とは違って庶民を脅かす存在がなかったのか、この記述からは、当時の庶民は幕藩権力に屈しない強い意思を持っていたことを想起させます。

ただ同時に、国政に関しては無関心だったこともうかがえますが…

また、片田舎の農民を訪ねて『ニコライの見た幕末日本』を書いたニコライ(本名イワン・ヂミートリエヴィチ・カサートキン)も、

「日本の民衆は、ヨーロッパの多くの国に比べてはるかに条件は良く、自分たちに市民的権利があることに気がついてよいはずだった。ところが、これら諸々の事実にもかからわず、民衆は、自分たちの間に行われていた秩序になおはなはだしく不満であったというのだ!商人はあれやこれやの税のことで不満を言い(実際にはその税は決して重くはないのだ)、農民は年貢の取り立てで愚痴を言う。また、誰もかれも役人を軽蔑していて、『連中ときたら、どいつもこいつも袖の下を取る。やつらは碌でなしだ』と言っている。そして民衆はおしなべて、この国の貧しさの責任は政府にあると、口をそろえて非難している。そうしたことを聞くのはなかなか興味深いことであった。それでいて、この国には乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも、夜毎、歓楽街は楽と踊りで賑わいにあふれている」

といい、日本の民衆は恵まれた状態にあるにもかかわらず政府に文句を言える、それ自体が自主的である証拠だと指摘しています。

江戸時代の庶民に、現代庶民とは比較にならないほどの言論の自由が保障されていた点は、注目すべきことだと思います。

現代においては、公に政府批判をしている人は様々な形でペナルティを課されかねず、最悪の場合には一家揃って命まで奪われかねませんから…

まとめ

以上、江戸時代庶民が現代庶民よりも自由に暮らしていたかを紹介しましたが、

「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているようにみえることは、驚くべき事実である」(イギリス人、ローレンス・オリファント『エルギン卿遣日使節録』)

という指摘もある通り、

江戸時代庶民も自由な暮らしを送ってはいたものの、現代庶民と同様、各社会のために犠牲になっていたのは事実のようです。

当時における各家の造りからしても、現代では耐えられないほどの監視社会だったでしょうし(とはいえ、当時はプライバシーという概念がなかったので不快とは感じなかったでしょうが)、

個人は何かしらの共同体に属していなければ生きられない時代だったでしょうからね…

それでも、

「日本人の間にはっきりと認められる、表情が生き生きしていることと、容貌がいろいろと違っているのとは、他のアジアの諸民族よりもずっと自発的で、独創的で、自由な知的発達の結果であるように思われる」(アンベール『幕末日本図絵・上巻』)

など、当時来日にした外国人が揃って指摘した内容からも分かるように、

江戸時代庶民の顔には幸福感と満足感が浮かんでいたことが読み取れます(江戸時代の大人は陽気で機嫌が良く、天真爛漫で無邪気だった)。

それは当時の庶民が、現代庶民よりも精神的に満たされた生活を送っていたからではないか?と予想。

浮世絵に描かれている庶民の表情からも、その様子がうかがえます(「藤沢市藤澤浮世絵館」江戸時代庶民の楽しそうな表情)。

それは前述してきた理由のためなのか、諸外国の情報や他の価値観を知り得なかったためなのか、それ以外の理由なのか分かりません。

ただ1つ言えるのは、江戸時代庶民は現代庶民のように管理された暮らしではなく、自由に暮らす権利を生まれながらにして持っていたということです。

現代よりも圧倒的に寿命は短かったでしょうが、庶民の表情が今よりも幸福そうに見えるのは、考えさせられる部分です。