『茶の本』人々は世間一般がよいと見做すものに喝采を送っている

1度読んだきりずっと仕舞ったままだった『茶の本』を、先日数年ぶりに読み返しました。

岡倉天心は生まれ育った環境と能力のために、日本語よりも英語のほうが得意だったせいか、1906年、まずアメリカで『The book of tea』(茶の本)を発行。

そこで日本の茶文化を誇り高く紹介しながら、東洋文化が西洋文化よりも遅れている・劣っているとする捉え方を批判しています。

また、茶は身分関係なく生活の中に入り込めるものだとし、社会の中に身分関係なくまっさらな状態になれる空間(=茶室)の必要性も述べています。

そんな茶や茶室に関する記述に改めて魅力を感じただけでなく、個人的にずっしり響く名言も連発されていました。

それらはほぼ社会に関する指摘ですが、その鋭さに驚いてしまいました。

屈原は言った、「賢人は世とともに推移する。」われわれの道徳の基準は社会の過去の必要から生まれる。が、社会はつねに同じ状態のままでありうるだろうか。共同体の伝統を遵奉すれば、個人は絶えず国家の犠牲にならざるをえない。教育は、その大いなる幻想を維持するために、一種の無知を奨励する。人びとは真に有徳の人たることを教えられるのでなく、不都合なく振舞えと教えられるのである。(p40)

屈原とは、中国戦国時代の楚の政治家であり詩人ですが、

  • われわれの道徳の基準は社会の過去の必要から生まれる
  • 共同体の伝統を遵奉すれば、個人は絶えず国家の犠牲にならざるをえない
  • 教育は~一種の無知を奨励する
  • 人びとは~不都合なく振舞えと教えられる

といった岡倉天心の記述を読むと、社会は100年前となんら変わっていないと感じます。

いますぐにも自分の才能を隠すがよい。もしもほんとうに世間に役立つことが知れたら、すぐに競売に出されて最高入札者の手に落されよう。何故、男も女もそんなに自分を広告したがるのか。それは奴隷時代に由来する本能にすぎないではないか。(p41)

現代も同様ですが、大半の国で人々は、労働者として自らの市場価値を高めるために、幼少期からあらゆる能力や資格を身に付けようとする傾向があります。

それが生きる糧を得る可能性が高い方法とはいえ、実際天心の言う通りだよなぁ、、、と思わされます。

芸術は、それがわれわれに語りかける度合でのみ価値があることを、忘れてはならない。(p72、73)

もしも、われわれの側の共感が普遍的であるならば、芸術が語りかける言葉も普遍的であるだろう。(p73)

先祖伝来の天分はむろんのこと、伝統と因習の力が、われわれの芸術享受の受容能力の幅を限定している。われわれの個性さえも、或る意味でわれわれの理解力に制限を設けている。つまり、われわれの審美的人格は、みずからの同類を過去の創作品の中に探し求める。(p73)

修養によって、われわれの芸術鑑賞の感覚が幅広くなり、それまでは知らなかった美の多くの表現を享受することができるようになることはたしかである。しかし、結局、宇宙の中でわれわれにみえるのは、自分自身の形象だけなのであって、言いかえれば、われわれの固有の気質が認識のかたちを指図するのである。(p73)

人びとは自分の感情を顧みることなく、世間一般がもっともよいと見做すものに喝采を送っている。彼が欲しがるのは、高価なものであって、風雅なものではない。当世風のものであって、美しいものではない。(p74)

作品の質よりも芸術家のなまえの方が、彼らにとって大事なのだ。(p74)

年代を経ているという点だけで彼らの仕事を有難がるとしたら、実際おろかなことである。(p75)

世間的に称賛されているものを手放しで称賛することは、ただ周囲に迎合しているだけの受動的行動で、主体性も能動性もないのかもしれません。

世間を知らないある程度の年齢までは、それでもいいのかもしれませんが、、、

ある程度の歳を重ねたときにも同じような状況だと、自分の価値観や自我が定まっていない可能性があります。

ただ、境遇や生活環境によっては、自分の価値観や感性に見合ったものだけを愛することは難しいケースもあるかもしれず、いろいろ考えさせられるものでした。