ぺんぎんメモ

他者との心の境界線がないと、個人の尊重は不可能

time 2020/01/06

年末年始に読んだ本の中で引っかかっていた言葉、「他者との境界線」。それが数十年間自分を苦しめてきた対象だったと気付いたのは、まさに今日。

物心付くか付かないかの頃に住んでいた田舎の稲作地域では、濃い人間関係がありました。

その村落に他者との境界線が曖昧な人が多かったのか、一般的な日本人がそうなのかは不明ですが、当時私の自由の範囲で私が決めるべきことに関しても、その地域には過度に干渉・介入してくる人が多くいて、「どうしてこうしないの?」「こうしなきゃいけないのよ」と口をはさまれることが頻繁にありました。

元々閉鎖的な地域社会で生きていれば、そうしたことに違和感を覚えなかったかもしれませんが、それまでそうではない社会に住んでいた私にとっては、尋常でないストレスであり違和感を覚える社会でした。

が、それから数十年経って、私自身もその頃嫌悪した人々と同じように、他者との境界線がない人間になっていることに気付きました。

自他の区別が曖昧で他者の気持ちが入ってきやすく、自分ではどうにもできないことなのに自分に責任があるように感じたり、他者のストレスを一緒に感じたり、逆に他者の自由で他者が決めることなのに「なんでこうしないの?」と口を挟まずにいられなかったりする自分がいました。

こうした、境界線越えしてしまうことをパウンダリー・オーバーというそうです。以前、「自他の区別」ができない=「自分がない」=主体性がない=やりたいことが分からないという記事を書きましたが、改めて「他者との境界線がない」社会の生きにくさを考えさせられました。

そういう社会は、他者の生き方に過度に干渉・介入してくる社会であることが多く、社会的強者以外に自由はないように見えます。

もちろん、村落共同体で他者の気持ちを察することを長年求められてきた日本人には、境界線が明確でない人のほうが多いのかもしれませんが、私はそうした人間に囲まれて生きた幼少期が地獄だったので、他者との境界線がある人間として生きていきたいと思っています。

夫が他者との境界線が明確な人なので、私もそれに影響されて徐々に境界線がもてるようになってきましたが、持って生まれた性質なのか、疲労困憊すると他者の気持ちが自分の中に入ってきやすくなり境界線が曖昧になってきます。

そうした境界線がなくなるのは自尊心の低さが原因らしいのですが、まずは自分の感情を認識する癖をつけて、それを他者の感情と区別して認識し生きていけるようになりたいです。

       




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奨学金完済をめざしながら、旅、食、リタイア、(海外)移住、晴耕雨読生活を追い求めてふらふら生きています。

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