「絆」という言葉が苦手

東日本大震災以降、「絆」という言葉が多用されている気がします。

最近は良い意味で用いられているこの言葉ですが、語源は「犬や馬などの動物を繋ぎとめておく綱」であり、あまり良い意味ではないようです。

どうやら、絆には「繋ぎとめて離さない」という意味があるみたいです。

日本は、個人よりも社会や共同体の存続を優先してきた歴史があり、この「繋ぎとめて離さない」ことも、限界集落ばかりの日本列島では、長年重要な概念だったのかもしれません。

確かに、「繋ぎとめて離さない」=「絆」の論理のおかげで、山岳地帯が7割以上を占める日本列島の厳しい自然環境においても、閉鎖的村社会が生き残れた例は多かったと思います。

が、閉鎖的村社会における弱者は、常に辛く苦しい立場に追いやられている場合が多く、例えば男尊女卑社会における女性や、身分制社会における身分の低い層がそうだと思います。

また「絆」同様、「現代は人と人との繋がりが希薄なので、過去のコミュニティや共同体を取り戻す必要がある」という内容も頻繁に耳にします。

しかし、「人と人との繋がり」を取り戻そうとするのは間違っていると思います。それは、良い面よりもそうでない面が多い気がするからです。

皆が貧しかった時代や価値観が画一化された時代においては、そうした「繋がり」を重視しても良かったのかもしれません。

が、現代は価値観や生活環境が多様化するとともに、重税+過酷な労働環境に置かれている庶民が多く、肉体的・精神的に疲労困憊状態です。

そんな時代に、希薄化された「人と人との繋がり」を机上の正論によって取り戻そうとすれば、時代錯誤の価値観によるストレスが増大し、精神病患者を増やすだけになると思います。

日本全国各地にあるパチスロ屋は、そんな「人と人との繋がり」を避けたい人が集う場だと思います。

同様に、1人カラオケ・1人焼肉・1人居酒屋・1人外食・1人旅などが流行る背景には、多くの人が人と繋がりたくない(仕事以外は1人でいさせて)と思っていることを表している気がします。

「絆」が無くなっているのは、過酷な労働環境による反動であり当然の結果

にも関わらず、そんな現状にそぐわない時代錯誤の社会的正論を推進しようとするのはやめて欲しいです。