泉谷閑示氏の本に引用されていた、夏目漱石の『私の個人主義』。
この本が興味深い内容だったので、先日読んでみました。
『私の個人主義』は、夏目漱石が亡くなる2年前の1914年に各地で行った、講演内容を集めたもの。
その中の「現代日本の開花」という講演内容で漱石は、日本の文明開化は上滑りの開花であり、内発的でなく外発的であると指摘しています。
西洋で百年かかってようやく今日に発展した開花を日本人が十年に年期をつづめて(p63)
やろうとすれば、また、
百年の経験を十年で上滑りもせず遣りとげようとするならば年限が十分の一に縮まるだけわが活力は十倍に増やさなければならん(P63)
その結果、
体力脳力共に吾らよりも旺盛な西洋人が百年の歳月を費やしたものを、いかに先駆の困難を勘定に入れないにした所で僅かその半ばに足らぬ歳月で明々地に通過し了るとしたならば吾人はこの驚くべき知識の収穫を誇り得ると同時に、一敗また起つ能わざるの神経衰弱に罹って、気息奄々として今や路傍に呻吟しつつあるは必然の結果として正に起るべき現象でありましょう。(p63、64)
と、西洋諸国に倣って行った日本の文明開花は、外発的なものであり内発的なものではないため、神経衰弱を引き起こしてしまうと指摘。
それゆえ、
ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろう(p66)
といいます。
神経衰弱・・・極度の不安などが原因で、気力が落ち思考力が働かなくなったり注意力が散漫になったりする症状。
そんな鋭い指摘通り、講演から100年以上経った現代日本では、他国ではあり得ないような神経症的症状を持ち合わせる人が多い気がしています。
文明開花後に幾度もの戦争を行い、アメリカに援助されながら(日本人自身の凄まじい努力もあり)戦後復興そして経済発展をしましたが、その後30年以上不況。
その間、日本人の心はどんどん細かく狭く貧しくなり、心の広さも他人への許容度も減ったと推察。
実はもともとそうだったのが、余裕がなくなって露見したのかもしれませんが、、、
文明開化当時、圧倒的力の差を見せつけられた日本人が、欧米諸国に無理やり倣おうとして、犠牲にしてきたものが今になってハッキリと現れ始めた感じ。
他国では規制禁止されている農薬や添加物の大量使用、医療被曝、人命をないがしろにする教育環境や労働環境、男性社会、その他諸々、、、
数百年間鎖国し続けていた島国が、外圧によって無理やり急成長発展したことで、本来であれば大切に守るべきもの、失ってはいけないものを手放した可能性があります。
もちろん、逆に、それまで人力に頼っていた部分を機械化できて負担が激減したり、より酷かった人命軽視をマシにできたりした部分もありました。
ただ、守るべきものを守らず犠牲にしてきたツケが、夏目漱石の予見通りの社会を生んでしまっている可能性も否定できない。
社会レベルで守ることができないのなら、せめて今からでも個人レベルで守る、失ったものを取り戻す必要があるのかなと思います。