『維新と科学』で分かってきた明治維新前後の流れ

先日『維新と科学』(武田楠雄、1972)を読んだのですが、その内容が以前読んだ『逝きし世の面影』の内容と重なり、興味深かったのでご紹介。

『逝きし世の面影』では、薩摩藩による奄美大島の搾取によって明治維新の資金源が作られる流れや、

グラバーによる諸藩への武器の売りつけ、オランダの思惑、長崎造船所(現三菱造船所)のはじまり、

その他歴史に関する詳しい記載はありませんでした。

ただ、当時の日本で辣腕をふるった外国人の名前がたくさん出ていたので、今回読んだ『維新と科学』がスムーズに頭に入る助けになりました。

当時と今は似ている

今回、『維新と科学』を読了して気にかかった点が1つ。

それは、当時の日本と現代日本の状況が似ていること…

現在、日本は世界の流れから、あらゆる面で取り残されつつあります。

世界の流れとは真逆に進んでいる分野もちらほら…

当時の日本はといえば、欧米諸国の植民地政策から日本を守るために(および明治政府構成メンバーの立身出世のために)、

日本を取り巻く環境に危機感を持った下級武士を中心とした人々が、頭と体を使って(海外へも出て)、

徳川幕府を利用しながら知識を蓄え技術を身に付け、その後各々活躍していきました。

世界から取り残されている日本

流れ的には、黒船来航後、欧米諸国から科学技術の差を見せつけられた日本(各藩と幕府)は、

軍艦購入や航海術学習のための留学などをしながら、欧米諸国に追い付こうとします。

が、当時の日本はほんの数年前まで鎖国していた国…

知識どころか、それを受け入れる土台や体制、精神面での成熟など、西洋技術を受け入れるには全くもって不適な状況でした。

それに加え、当時は「そういうことは賤しい者・身分の低い者がやること」という社会的風潮があり、

集めた人材は教えを求める先もないまま、自学自習で知識を蓄えていくしかありませんでした。

数学でさえ、当時国防上の必要に迫られてようやく学ばれ始めたものだったそうです(それまでは、町人の芸として長らく蔑まれていたらしい)。

日本社会にあるのは閉塞感

それでも当時は、他国の植民地支配から逃れるために、同時にハングリー精神を持った人々の立身出世のために、

一般庶民に犠牲を強いながらも(各藩の財政は厳しくなり、人々の暮らしも貧しくなっていった)、軍事力増強に精を出す人々が現れます。

それだけ、当時は科学技術(軍事力)が圧倒的に不足していました。

ただ、それは現代も同じような気がしています…

というのも現状、科学技術(IT分野)のほか、人権意識、農薬や化学肥料の大量使用、労働環境等々、

あらゆる面で世界に遅れをとっているように見えるからです。

それだけでなく、当時と違って今の日本には危機感がありません

むしろ社会全体に漂っているのは、閉塞感です。

日本は売られている

欧米諸国に隷従する今だけ・金だけ・自分だけの支配層が、日本列島にある資産を外資に売りまくり、

結果、日本社会を荒廃させているように見えます。

日本は、目に見える精密技術は優秀ですが、目に見えない分野や長い目線で物事を考えること(50年100年単位で考える視点、未来を見据える視点など)が苦手で、

時代遅れの人権意識と男性優位の社会構造が、人を人とも思わない家庭環境と労働環境に拍車をかけているように見えます。

DNAは受け継がれているのかも

以下は、この本で特に印象に残った箇所です。

日本の文明開化の特色は、血をみることのなかったなが年の平和の上に蓄えられたポテンシャル・エネルギーを基盤とし、前記の小廻りの利く点、いいかえれば熱容量の小さいことと、自生の固有の文化をもたず、文化的にたえず衛星的存在であり、異文化の摂取に反撥も屈辱も感じない民族が、外圧による植民地化におびえて、敏捷に牛を馬に乗りかえて欧化のみちをたどったところにあり、また植民地化を防ぎ得た代償として骨の髄まで欧化していったところにある。

(p207,208)

見たこともない巨大軍艦と圧倒的破壊力をもつ武器を備えた欧米諸国から、植民地にされるかもしれないという危機感により、

表面的であると批判されながらも、必死に科学技術を学ぶ中で、

「ヨーロッパ的文明を正確に後追いすることだけが文明であり進歩である」と当時の人々が思ったのも、仕方なかったのかもしれません。

「文化的にたえず衛星的存在」である、というのが悲しいですが…

とはいえ、江戸時代から変わらない日本人の性質4つでも書いたとおり、

チェンバレンによれば知的訓練を従順に受け入れる習性や、外国を模範として真似する国民性の根深い傾向も日本人の本質とされているため、

島国といえども地政学的に安全とはいえない国に住む人々なりの、生き抜くためのDNAが、日本人には備わっているということかもしれません。