『逝きし世の面影』(渡辺京二、2005)における訪日外国人の記述から、何度かご紹介している江戸~明治時代初期の庶民の暮らし。
今回は、当時訪日した欧米人が揃って指摘した日本人の悪徳、淫らさについて紹介します。
以前、江戸時代の日本人に性的羞恥心はなかったでも書きましたが、
「この時代の日本人は庶民層・上流階級問わず、淫らで嘘つき」というのが欧米人の共通認識で、それを日本の上流階級も自覚していました。
そうした認識を持たれた原因の1つに、制度化された売春があります。
そしてそれは、欧米人の好奇心と議論の的にもなっていました。
謹厳な香港主教イギリス人のジョージ・スミスは、日本人の混浴や裸体で過ごす習慣に対して憤慨した後で、
「顔立ちのよい女性は堕落した両親によって売られ、幼い頃から恥辱の生活にゆだねられる。奉公の期限が満ちると、日本の中流階級と結婚することも稀ではない。男たちはこういう施設から妻を選ぶことを恥とは思っていないのだ」(『Ten Weeks in Japan』)
と述べ、キリスト教国家では考えられない社会制度、社会構造、社会的風土に驚嘆しています。
アメリカ人地質学者パンペリーも『日本踏査紀行』において、
「婦女子の貞操観念が、他のどの国より高く、西欧のいくつかの国々より高い水準にあることは、かなり確かである」にもかかわらず、「自分たちの娘を公娼宿に売る親たちを見かけるし、それはかなりの範囲にわたっている」
ことに、矛盾を感ぜずにはいられなかったようです。
しかし、一方でこの公娼制度が
「他の国々では欠けている和らいだ境遇を生み出」していたことも事実で、「犠牲者はいつも下層階級出身で、貧困のために売られ」ていたのですが、「彼女たちは自分たちの身の上に何の責任もないので、西欧の不幸な女たちをどん底に引きずり込む汚辱が彼女たちにつきまうことはない。これとは逆に、彼女たちは幼少時に年季を限って売られ、宿の主人は彼女たちに家庭教育の万般を教えるように義務づけられているため、彼女たちはしばしば自分たちの出身階級に嫁入り」
していたことも認めていて、西欧的概念には当てはまらない売春制度だったことが想像できます。
彼女たちは社会から除け者扱いを受けることもなく、25歳までの年季を勤め上げれば家庭に入ることもできたといいます。
イギリス人のラザフォード・オールコックは、
「法律の定めるとおりに一定の期間の苦役がすんで自由の身になると、彼女たちは消すことのできぬ烙印が押されるようなこともなく、したがって結婚もできるし、そしてまた実際にしばしば結婚する」
と述べています。
また、オランダ人軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトにいたっては『日本滞在見聞記』で、遊女は25歳になると
「尊敬すべき婦人としてもとの社会に復帰する」し、「彼女らが恵まれた結婚をすることも珍しくはない」。遊女屋は「公認され公開されたものであるから」、遊女は社会の軽蔑の対象にはならず、「日本人は夫婦以外のルーズな性行為を悪事とは思っていない」
と述べているほどです。
そうした指摘は、オランダ商館の医師として1775~6年にかけて出島で暮らしたツュンベリも行っていて、『江戸参府随行記』で、長崎にある遊郭について、法律やお上が認めているこうした場所は、みだらな隠れ家とも卑猥な出会いの場所ともみなされていない旨を述べています。
そんな風に幕府から保護され、社会からも恥とみなされていなかった売春制度でしたが、やはり様々な弊害と悲惨な事情を内包していました。
1862年に英国公使館の医官として日本に赴任したウィリスは、英国外務省に提出した報告書で以下のように述べています(ヒュー・コータッツィ『ある英人医師の幕末維新ーW・ウィリスの生涯』)。
遊女は一般に二十五歳になると解放されるが、たいてい妓楼主から借金を負うはめに陥り、本来の契約期間より長く勤める場合が多い。彼女らの三分の一は、奉公の期限が切れぬうちに、梅毒その他の病気で死亡する。江戸では遊女の約一割が梅毒にかかっているとみられるが、横浜ではその二倍の割合である。梅毒は田舎ではまれだが、都市では三十歳の男の三分の一がそれに冒されている。(『逝きし世の面影』p329)
というように当時は性病が蔓延しており、それにより若くして命を落とすことも多かったようです。
親に売られた挙句、このような生活を送らなければならない女性の一生を想像すると、、、
個人的には言葉が出ないというか、人身売買のおぞましさに憤りを覚えます。
そんな悲惨な状況が伴う公娼制度でしたが、前述した通り、当時の日本社会では肯定的な位置を与えられていたことに、欧米人たちは驚いていたのでした。
もちろん、道徳的に問題がないとされていたわけではなかったようですが、裸体や混浴と同様、売春にも欧米社会におけるそれとは違った認識、社会的意味合いを持っていたようです。
貧しい親を救うための献身的行為として、身売りされる当人が嬉々としている様子を見た外国人が何人も存在するように(ただ、売られた先にどんな人生が待ち受けているのか、当人は知る由もなかったと思いますが…)。
当時の売春が、日本人にとって独特の意味合いを持っていたのは確かだと思います。
娯楽が少なかった当時の日本において、そうした公娼や東海道中の飯盛り女などは、幕府が安定した統治を行うために保護すべき存在だったのかもしれません。