吉原~興津の22.4kmを歩いた【前編】【東海道を歩く】治水事業に人柱伝説が多い


前日沼津から吉原までの18kmを歩き、昨夜はホテル比佐志別館に泊まったので、今日はここから興津(興津の宿泊場所)を目指して歩きます。

朝食はホテル食堂でのバイキング。

感じの良い食堂の方にお惣菜を勧められて、朝からしっかり食べました。

品数は少ないですがどれも美味しかったです!

しっかり食べていざ出発~

歩き始めてすぐに満開の桜!

8時半に出発したのにすでに暑い…

4月で最高気温22度は平年並みだと思いますが、朝から日差しが強いような…

農産物直売所がやっていましたが(見たかった!)、横目に見ながら黙々と歩いていきます。

青島という交差点で、東海道が国道139号線から県道396号線になります。

大通りですが歩道が狭い。足元に気を付けながら歩いていきます。

少しすると川原宿交差点。

県道沿いなのでコンビニも豊富で、トイレにも困りません。

「間宿 本市場」がありました。

吉原宿と蒲原宿の中間にあり休憩地点になっていた所で、多くの茶屋や旅館が立ち並んでいたそうです。

今はシャッターが下りていますが、普段は賑わいある商店街らしいです。

ここは富士本町通り。

ひたすら396号線を西へ西へと進んでいきます。

突如、「明治天皇御小休所」という石碑。

明治以降、明治天皇認知に躍起になっていた政府です。

そうこうしながら歩いていると、水神社(すいじんじゃ)という神社。

神社の奥に見えるのは、「水神の森」という森だそうで安全を祈願し水神社を祀っているとのことです。

標柱には「水神社と渡船場」(すいじんじゃととせんば)との記載。

江戸時代、東海道を東西する富士川を渡るには渡船を利用していたそうです。これは、富士川が急流であることや水量が多いことと、幕府を開いた徳川家康の交通政策が影響しているようです。

そんな富士川にかかっている富士川橋を渡ります。

これは…大きいうえに流れも速いので、上流付近でないと渡るのは大変そうな川…

富士川は山形県の最上川、熊本県の球磨川とともに、日本三大急流の一つに数えられているそうですが納得…

川沿いの富士市は度重なる洪水による災害が多発していたため、古郡重高・重政・重年の父子3代が50年以上の歳月を費やし、1615年から「雁堤」(かりがねづつみ)と呼ばれる全長2.7kmに及ぶ堤防を完成させたそうです。

またその後、加島五千石と呼ばれる水田を加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)に造成したとのこと。

江戸時代には治水設備がなく洪水が多発している地域が多いですが、重機がなく人力頼りのためその設備を建設するのも円滑ではなく、治水事業を行った各地に人柱伝説が残っているのが残酷です。

橋を渡ったら左折。

橋の上は寒いほど風が吹いていましたが、それまで暑かったのでちょうど良い感じでした。

県道396号線沿いにはコンビニがなくトイレに困ったため、富士川ふれあいホールにてお借りしました。

利用者は少なく、座って休めるスペースもありました。

東海道線を左にして、再び歩きます。

ようやく静岡市に入りました!

歩いていると、「古蹟 源義経硯水」と書かれた石碑。

1174年、かってこの地域を掌握していた蒲原氏という人の館に泊まった源義経が、祈願文をしたためる際に墨をするため汲んだ湧水を「義経硯水」と呼ぶようになったとのこと。

新蒲原駅を通過。

少し歩いてから、蒲原宿(かんばらじゅく)に到着。

旧東海道には案内板。

住宅街の中にキレイに収まっている感じなので、見落としそうでした。

蒲原宿西木戸と書かれた石碑。

静岡県内の旧東海道沿いでよく見かける標柱も。

昼食は、bloom by 3rdplace(ブルーム バイ サードプレイス)というお店で食べました。

女性に人気のお店のようで、平日にも関わらず子ども連れの女性や女性2~3人のお客様がたくさんいました。

ランチタイム限定の、メイン料理+サラダ・自家製パン食べ放題+ソフトドリンク飲み放題の1300円というセット。だいたい皆さんそれを注文していたようです。

そんなに食べられないと思ったのですが、後半も歩くのでしっかり食べました。

店内も温かい雰囲気で店員さんの感じも良く、食事も美味しかったのでここで食事して正解でした。

エネルギーチャージしたので、再度しっかり歩きます。由比まで3km!

歩いているうちに高い建物がなくなり、歴史のありそうな建物が立ち並び始めました。

蒲原駅を通過。

そういえば、吉原あたりからサークルK以外のコンビニを見かけません。

緩やかな上り坂を進みます。

一里塚跡を発見。

歩道はないですが車の通りも少ない道なので、歩きやすいです。

「御七里役所之跡」。

江戸時代、西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に、七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があったそうで、ここは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡になっています。

同家では江戸和歌山間584キロに約七里(28キロ)毎の宿場に、中継ぎ役所を置いて5人1組の剣道弁舌に優れた飛脚を置いたそうです。

由比宿以降は次回→吉原から興津までの22.4kmを歩いた【後編】【東海道を歩く】