以前にも何度か紹介したことがある医療業界の癒着ですが、今回はより幅広く見ていきたいと思います。
例によって『人類が生き残るために』(浅野晴義、1979)から引用します。まずは病院の場合です。
薬品の売りこみ合戦は凄まじい。同種の薬品で、販売会社が三つも四つもある場合は、特に競争が激しくなる。病院では、医者にサービスのよい製薬会社の製品がふつう使われることになる。学会出張費用の支払い等は、かなりの範囲で行われているようであるし、忘年会とか医局旅行の際に、製薬会社の賛助金が顔を出すのは当り前のこととなっている。
サービスを受けた以上、その会社の製品を使いたくなるのは人情であろう。
私が公立病院にいた頃、鎮痛用注射薬が、S社とY社から違った名前で同時に発売されたことがある。S社は外科医にサービスの重点をおき、Y社は内科医にサービスを集中した。その結果この注射薬は、外科医の指示ではS社のもの、内科医が使う場合にはY社のものとはっきり二つに別れたのであった。薬が一旦使われはじめると、続いて使われることが多いので、製薬会社としては、最初の投資を上回る利潤を得ることは簡単らしい。しかし、こうした過剰サービスが薬づけ医療を生み出す原因の一つであることは間違いないようである。(p63)
以前勤務していた会社で知ったことですが、同業他社の中には取引先(大企業)に対して毎年袖の下を渡していた会社も数多くあり、「そういうのって実際にあるんだなあ」と印象的だったのを覚えています。
額は違うかもしれませんが、どうやら医療業界も同じみたいです(どの業界でもそうかも?)。
次に、大学病院の例です。
私が大学病院の無給医局員の頃、O製薬会社から新薬のデーター作成の依頼があった。穀物から抽出したある物質が、間脳系に働いて生物作用を賦活するというのである。この物質を薬として製造、販売するために大学の臨床成績が必要だというのである。
厚生省の新薬認可を得るために、大学での臨床成績は絶対必要条件である。その為に製薬会社と大学の医師、特に臨床の医師との癒着が起きるのは当然であろう。
この場合、O社の見返りは、成績をまとめて貰えればその代りに研究費を寄付するとの申し出であった。私達の研究室では、研究の合い間にこの薬の薬効をしらべることになった。あまり治療効果があるという結果は出なかったのであるが、ほどほどに成績をまとめて、現在の物価にしておよそ二十万円ほどの研究費を頂戴したのである。この製品は厚生省の認可がおり、今でも不定愁訴の患者に相当の範囲で使われている。
こうした産学癒着を一概に否定し去ることは難かしい。なぜなら、他のことには惜しみなく税金を費消する政府も、学問の研究には極く僅かの研究費しか出さないからである。大学での研究を根本的に否定するのでない限り、癒着の構造も否定できないであろう。
しかし、こうした癒着は全国の大学でみられる事実である。これがなくならない限り、日本の大学での臨床成績には疑いの目を向けないわけにはいかない。(p64)
こうした製薬会社と病院、製薬会社と大学などの癒着構造があるからこそ、薬に対して疑い深くなってしまうし、製薬会社に対してもマイナスイメージが沸いてしまいます。
「厚生省の新薬認可を得るために、大学での臨床成績は絶対必要条件」という点からして、癒着を促しているようにしか思えません。
これまでにも、数多くの必要な、しかし価格の安い、もうからない薬が消されていった。医業は利潤を追求してはならぬとされている。すると、利潤追求を使命とする株式会社が薬を製造し、売りこみをするシステム自体が基本的に間違っているようである。この間違いが、膨大な医療費の大きな部分を製薬会社に流れこむ形にしている。私達は薬に金を払いすぎているのである。(p75)
労働者から徴収した高額な社会保険料を、国内外の製薬会社が医療費という形で独占し、莫大な利益を上げています。
手っ取り早く病が治る薬は、現代人にとって確かに必要なものかもしれません。薬によって救われている人が大勢いることも事実です。
が、私の周囲では不要な投薬をされている人々も数多く知っているので、医療機関における過剰な投薬は何らかの形で規制されるべきだと思いますし、庶民はまとまって声をあげる必要があると思っています。