ぺんぎんメモ

日本社会はプライバシー侵害が当たり前

time 2019/05/08

インターネットの普及に伴って、プライバシーがより冒されるようになったと感じる昨今(プライバシー:個人的な日常生活や社会行動を他人に興味本位に見られたり干渉されたりすること無く、安心して過ごすことが出来る自由『新明解国語辞典』)、プライバシーに鈍感な日本社会に辟易してしまう自分がいます。

それは単に私が神経質なだけかもしれませんが、幼少期から気になってきたことなので書かせてもらうと、現日本社会は他人・他人生活への干渉が大きいと感じています。しかもその干渉する動機が、助けよう・お世話しようというのとは違い、自分に自信がないから他人・他人生活を知って安心したいという、変な動機が多い気がします。

大陸のように陸で他国と接することがないため、外へ意識が向きにくいのかもしれませんが、ちょっと異常な状態だと思います。他人を放っておき、もっと自分のやりたいことに意識を集中すればいいのに。

先月読んだ『暴露―スノーデンが私に託したファイル』に、

デジタル時代におけるプライヴァシーはもはや”社会規範”ではなく、個人情報を売りものにするハイテク企業に儲けさせるための概念

に対する懸念が書かれていました。が、プライバシーを保護することは人間が自由に生きるために不可欠なもの。誰でも他人に知られたくない領域というものがあると思いますが、その領域が守られることはその人を尊重することとイコールだと思います。

誰かに見られるだけで、人間の行動は大きく変化する。まわりに期待されているとおりに行動しようと必死になり、恥をかいたり、非難されたりすることを避けようとする。そのため、人は一般的にすでに受け容れられている社会的慣習に忠実に従い、決められた境界線の内側にとどまり、基準から逸脱しているとか異常とか思われそうな行動を避けるようになる。

その結果、他者の視線を感じているときに人が考慮できる選択肢の幅は、プライヴェートな領域での行動時よりもはるかにかぎられることになる。つまり、プライヴァシーの否定は、人の選択肢の自由を著しく制限する作用があるということだ。(p258)

私たちはほかの誰にも見られていないと信じているときだけ、自由と安全を感じることができる。何かを試し、限界に挑戦し、新しい考え方や生き方を模索し、自分らしくいられるのは、誰にも見られていないときにかぎられる。インターネットの魅力はまさにこの点だった。匿名で会話や行動ができる場所、つまり自己の探究に欠かせない機会を与えてくれる場所。それがインターネットの魅力のはずだった。(p259、260)

けれどもスノーデンの暴露によって明らかになったように、国家はインターネットを含むあらゆる手段を使って国民を監視し、そしてその監視しているという事実によって国民を管理統制しています。

監視システムが効果的に人の行動を統制できるのは、自分の言動が監視されているかもしれないという認識を人々に植えつけるからだ(p261)

これはイギリスの哲学者ベンサムが生み出した、パノプティコン概念の核心となるものです。

どんな施設であれ、すべての人を常に観察することはできない。そこでベンサムが考え出した解決法は、被収容者の心に「看守がいつもどこかで自分を見ている」という意識を植えつけることだった。「監視対象となる人間には、常に自分が監視されているように感じさせる必要がある。少なくとも、監視されている可能性が高いと思わせなくてはいけない」。そうなると、たとえ見られていなくても、被収容者は常に監視下に置かれているような感覚を抱きながら行動することになる。その結果生まれるのが服従、盲従、予定調和であることは容易に予測できる。ベンサムは自らの提案が刑務所や精神科病院だけでなく、社会のあらゆる施設にまで広がるだろうと予測した。彼にしてみれば、常に監視されているかもしれないという意識を市民の心に植えつけることは、人間行動に大革命をもたらすものだった。(p262)

日本には「お天道様が見ている」という概念がありますが、それは倫理的・道徳的に間違った行動を抑制するための迷信的なもの。ただ戦時中が監視社会であったように、日本社会には根底にパノプティコン的構造・思想が埋め込まれやすく、それによって自由な行動・言動が制限されてきた部分もあるのではないかと思います。もちろんパノプティコンによって治安が維持されてきた面もあったでしょうが、同時に様々な自由が制限されてきたのも事実です。

パノプティコンは「閉じ込められた者に常に見られているという意識を植えつけ、権力が自動的に作用する状態をつくり出す」。そういった監視状態が人々に内在化すると、抑圧の明らかな証拠はもはや見られなくなる。抑圧する必要がなくなるからだ。「外側の権力には物理的な実像が求められなくなる。つまり、眼に見えない力が人々をコントロールしていくのである。このような状態に近づけば近づくほど、監視の効果はより大きく持続的なものになる。~中略~

さらに、この管理モデルには、自由の錯覚を同時につくり出すという大きな利点がある。服従を強制するのはその人自身の心である。見られているという恐怖から、人は自ら従うことを選択する。そこまで来れば、もはや外部からの強制は不要となり、自由だと勘ちがいしている人たちをただ管理すればいいだけになる。(p263)

読んでいて、これは日本社会のことでは?と思いました。パノプティコンが当たり前とされていて、おかしいと思うことさえ不可能にさせられている。これでは経済面だけでなく、精神面でも社会に閉塞感を覚えて当然です。

政府が全員の行動を監視しているとなると、反対運動を起こすこと自体もむずかしくなる。それどころか、大量監視は人間のさらに奥深くにあるもっと大切な場所で、反対意見の芽を摘んでいる。言い換えれば、人々は頭の中で、まわりの期待や要求に沿う考え方をしようと自らに教え込むようになる。

歴史を振り返れば、そのような集団的な思想の強制と管理こそ、国家による監視活動の最大の目的であり、その効果であることに疑いの余地はない。(p265)

現日本社会では幼少期の学校教育から、そうした集団的な思想の強制と管理が行われています。それは規律とは違う画一的な軍隊教育であり、多様性を認めないものです。そんな社会は、一見平和で安全で恵まれた先進国に見えがちですが、実像は自由とは程遠い気がします。

そんな中、政府は絶対的な安全を保障するようなフリをして(100%安全などあり得ないのに)、国民のプライバシーをないがしろにし続けています。

個人にとって安全至上主義が意味するものは、自動車や飛行機に乗らず、リスクが伴う活動に参加せず、人生の質より長さを重んじ、危険を避けるためならどんな対価でも払うという、無気力と恐怖に満ちた生活(p312)

となりますが、そんな生活は生きているではなくタヒんでいる状態だと思います。テロの危険を煽りプライバシーを侵害する流れは世界的に強まっていますが、それ以前から日本はどうも諸外国よりもプライバシーがないがしろにされた社会ではないかという感じがします。

それを許してきたのは国民ですが、人権もいまだに軽視されている所を見るとプライバシーが軽視されているのは、この社会特有のものではないかと思います。歴史的・地理的に仕方ない面もあったかもしれませんが、現日本社会は物質的には進んでいたとしても、精神的には随分と遅れている社会のような気がします。

       



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奨学金完済を目指しながら、旅、食、自然、心理、(セミ)リタイア、(海外)移住、晴耕雨読生活などを 追い求めて暮らしています。

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