「言語への依存度」が低い(=文脈依存度が高い)日本社会の弊害

出典:http://www.alc.co.jp/eng/global/gmkouza/002.html

上図を初めて見たとき、最初は何のことだかさっぱり分かりませんでした。

ただ、その後いろいろなサイトで意味を理解するにつれて、確かにそうかもと納得。

どうやら長い間、日本は他国からの支配を受けず、単一民族時代が長かったために、言語への依存度が低い(=文脈依存度が高い)社会となっているそうです。

これはどういうことかというと、相手に対してあれやこれやと細かく説明しなくても、意思が伝わりやすい社会ということです。

日本文化である、俳句や短歌、川柳、標語などはその良い例だと思います。

いかに短く表現するか、の社会です。

別の言い方をすれば、そうした文化は「あうんの呼吸」で相手の意思を察するのが当たり前の社会であり、察する側が相手の真意を汲み取る必要があります。

この「言わなくても察しろ」文化の弊害は、察する側の負担が非常に大きくなるところにあります。

主語をハッキリさせないコミュニケーション方法のために、〈察する側=受け取り手〉に責任を転嫁できてしまうからです。

その結果、不利益が生じればすぐさま相手に責任を押し付ける、というような無責任な人間を大量に生み出す危険性もあると思います。

https://www.scoopnest.com/ja/user/4ki4/1165628993434841089-

そんな「言わなくても察しろ」文化は、他国よりも、バックグラウンドや文化的同質性が高い日本社会だからこそ可能です。

が、このコミュニケーション方法を上下関係で行う場合、下の立場の人間は遅かれ早かれ神経が病られる可能性が高いと思っています。

結果、日本社会で神経を病まないためには、対等な関係性でいられる人間関係しか持たないか、言わなくても察しろ文化を持つ人と関わらないか、メンタル強者になるか…のどれかしかない気がしています。

また、言わなくても察しろ文化では、物事があいまいな状態のまま進むことがあるため、ツメが甘くなることがあります。

結果、トラブル発生後も原因と責任があいまいなままなので、また同じことが繰り返されてしまうような気がします。

ところで、よくアメリカから日本に帰国した日本人が、コミュニケーション方法に悩むと聞きますが、それも上図を見れば納得できることかもしれません。

アメリカは日本とは真逆で、言語への依存度が高く(=文脈への依存度が低く)、主語をハッキリさせてコミュニケーションを取る社会のため、ハッキリ言わないと生きていけない土地です。

そうした土地で長年生きてきた人が、主語があいまいな「言わなくても察しろ」文化の日本社会に馴染むには、大変な苦労を伴うと想像します…

結局、「言わなくても察しろ」文化には、〈察する側=受け取り手〉の負担が大きくなること、無責任な人間を大量生産してしまう可能性があること、立場が下の人間が病みやすいこと、物事のツメが甘くなることなどの弊害があると思います。

もちろん、「言わなくても察しろ」文化にも良い面はあると思いますが、時代が経過するにつれてその弊害が大きくなっているのではないか、と感じることが増えてきています。

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