『反教育論』現代教育で量産される思考停止人間は、支配層にとって都合がいい

最近読んだ、『反教育論』(泉谷閑示、2013)。

泉谷氏の本は『「普通がいい」という病』、『「私」を生きるための言葉ー日本語と個人主義』を読みましたが、『反教育論』もそれらと同じくらい興味深い内容が詰まっていました。

結果、考えさせられる部分が数多くあったため、特に印象的だった部分を本文を引用しながらご紹介。

まず著者は、現在日本で行われている「教育」は属している集団や組織に「服従」する人間を生み出すもの、だと述べています。

そして「服従」は、

人間を思考停止に追い込み、自らの首を絞めるような愚かしい行動さえ生んでしまう恐ろしいものである(p33)

と述べ、現代教育の大半は思考停止人間を量産するものでしかない、と述べています。

日本社会で30数年生きてきましたが、共感しかありません…

また、精神分析学者・社会心理学者・哲学者であるドイツ人エーリッヒ・フロムの下記言葉を紹介しながら、組織人間が社会における多数派を構成していることも指摘します。

「組織人間は、反抗する能力を失ってしまったし、服従しているという事実に気付いてさえいない」(p33)

無意識に服従している人間は、支配的立場になると下の立場の人間に対して、同じような「服従」を「美徳」として強制するそうです。

幼少期からこれまでに数え切れないほどそんな場面に遭遇してきましたが、その中で反抗的である人間は、

圧倒的な知力や運動能力、数字としての実績などがない限り、どうしても支配的立場の人間から目を付けられ攻撃されやすい傾向がありました。

特に、和を重んじる日本社会においては「服従」しない人間は、組織や集団にとって面倒な存在以外の何者でもないのだろうと思います。

「本当にそうなのか?」という懐疑的精神を持った人間が好まれない理由は、いろいろあると思いますが、多くの場合は、

孤独におびえ、真に自分で考えることをせず、安易に利益を享受したいと望む未熟な精神にとっては、「服従」というものはかなり魅力的なもの(p37)

なので、

「安易に利益を享受したい」と考える人間が多数派を構成しているこの社会では、

懐疑的精神をもつ人間によって現在の仕組みや空気が崩れてしまっては困るからだろうと思います。

組織や集団にとって、そしてその組織や集団を支配する層にとって、懐疑的精神をもつ人間は邪魔でしかないのです。

ただ、懐疑的精神をもつ人間を排除した組織や集団の多くは、自浄作用が働かないため徐々に機能しなくなり、最終的に滅びてしまうことが多いような気がします。

日本社会にはそうなってほしくないと思いつつも、いまだに服従する人間を生む教育を続けており、

そうした人間を尊ぶ閉鎖的村社会の組織や集団が数多くある現実を見ると、そうなるのも時間の問題なのかもしれないと思います。