上記でロシア文学への興味関心が増したので、
長編ではない小説、ドストエフスキーの『死の家の記録』を読みました。
ドストエフスキーは28歳のとき、ペトラシェフスキー事件によって捕まり死刑宣告を受けた後、
死刑執行直前に恩赦でシベリア流刑へ減刑。
シベリアにあるオムスク要塞監獄で過ごした4年間が、『死の家の記録』にそのまま反映されているようです。
入獄当初は、監獄の不清潔な生活環境、オムスク要塞監獄の囚人に政治犯はほとんどいないこと、
貴族であるがゆえの嫌がらせ(大半の囚人は農民)などが、ドストエフスキーに孤独を感じさせたようですが、、、
その後は周囲の人々の助けもあり、少しずつ獄中生活に対応して出獄まで辿り着くさまが描かれています。
小説内では、監獄内の人間描写が感情描写なども含めて細やかに描かれていて、
精神分析の本でも読んでいるような感覚を覚える箇所もあり。
ただこの小説を読みながら、軍隊的な義務教育時代を思い出して、、、いやな気持ちになりました。
もちろん笞刑(ちけい)などはありませんが、理不尽に生徒をなぐる暴力的教師の存在と、
自由や希望のない重苦しい雰囲気が、描かれている描写と似たものを感じさせたのかも。
それ以外にも監獄内の描写なので、所々読むのが不快に感じる箇所があったり、
国家的習俗なのか女性へのDVが当たり前とされるような表現があったりして辟易、、、
しましたが、考えさせられる文章もいくつかあったので抜粋しておこうと思います。
- 人間はどんなことにでも慣れられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う。
- 笑い方でその人間がわかるような気がする。ぜんぜん知らない人にはじめて会って、その笑いが気持がよかったら、それはいい人間だと思って差支えないと思う。
- 長年のあいだつきあっても、人間を見きわめることはむずかしいものである!
- 何かの目的がなく、そしてその目的を目ざす意欲がなくては、人間は生きていられるものではない。目的と希望を失えば、人間はさびしさのあまりけだものと化してしまうことが珍しくない……
ドストエフスキーが4年間シベリアの要塞監獄という環境で、唯一、持ち込みが許されていた本・聖書を盗まれた後の数年間は、
共同生活における実体験や見聞きした出来事による外的刺激が生活の大半を占めたため、
極限状態で引き出された上記の言葉には説得力があります。
また、監獄や一部の刑吏に対する批判も出てきますが、そこでも考えさせられる文章がいくつか。
- 監獄ともっとも重い労役が、犯罪者の内部に育てるものは、憎悪と、禁じられた快楽に対するはげしい渇望と、おそろしい無思慮だけである。
- だいたいこの連中は棍棒に追われてはたらくのだから、怠けぐせがつき、堕落していった。もとはだめな人間でなかった者でも、ここへ来て人間がだめになった。
- どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴逆になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる。粗暴と堕落は成長する。(中略)このような暴逆の例と、それが可能だという考えは、社会全体にも伝染的な作用をする。
ゴーゴリの『死せる魂』で描かれた登場人物を比喩で使ったり、囚人の人間性や美貌を評したり、
囚人同士の掛け合い・会話が出てきたり、
どう考えてもドストエフスキー自身の心情吐露だと思われる描写が出てきたり。
その内容から、1850年頃のシベリアのオムスク要塞監獄周辺社会における雰囲気を、部分的にでも垣間見たような気がしました。
引き込まれる内容で、面白かったです。