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「萩城下町」観光

time 2017/01/22

先日、萩市内の様子を簡単に紹介しましたが、今回は萩城下町を紹介したいと思います。江戸時代末期~明治を生き抜いた人々の歴史を感じられる貴重な建物が集結しています。

萩城下町は、萩城を中心に形成された城下町で、1604年に関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元が、萩城と並行して建設を進め、長州藩の拠点として機能した町です。

ここは、萩城の天守閣があった場所です。石垣と堀のみが現存しているようですが、後ろに指月山という山があり、景観のよい場所です。

萩城を超えて山に向かって歩いて行くと、志都岐山神社があります。鳥居に「明治23年6月建立」と書かれてあります。

萩城と隣接して、「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」があります。萩市に現存する武家屋敷の中では最大の大きさを誇り、国指定重要文化財に登録されているそうです。

萩城下町は、「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されました。こじんまりとした城下町は、町筋が碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていたそうです。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめています。

有名な場所が集中しているので、観光するのは便だと思います。当時にタイムスリップした気持ちで、1つ1つじっくり鑑賞したいところです。

まず、見つけたのは旧野田家住宅です。

当時の当主、野田七郎左衛門は、萩藩遠近付で51石余であり、木造平屋建で門戸、土塀、庭園などがあり、江戸時代の武家屋敷の特徴を色濃く伝えるものだそうです。51石の家といえど、かなり立派です。

少し歩くと、晋作広場という小さな広場があり、そこに高杉晋作立志像がありました。

これは、2008年に建てられた銅像で、高杉晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、両刀を差した羽織、袴の立ち姿です。銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられています。また広場には晋作が好きだった梅の木も植樹されています。

こちらは、菊屋家住宅です。

藩の御用達を勤めた豪商・菊屋家の住宅で、屋敷は幕府巡見使の宿として度々本陣にあてられましたといいます。屋敷は江戸初期の建築、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史があるそうです。
藩の御用商人・菊屋家は、もともと武士だったそうですが、毛利輝元公萩城築城の際に有力町人として萩入りし、町づくりに力を尽くしたのだそうです。主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国指定重要文化財に指定され、約2000坪の敷地面積を誇ります。すばらしい庭や美術品、民具、古書籍など貴重な資料が数多く展示されており、往時の御用商人の暮らしぶりを知ることができます。

こちらは、久保田家住宅です。

呉服商・酒造業を営んでいた久保田家は、江戸時代の後期に建てられ、主屋・門・塀・離れが旧御成道(おなりみち・参勤交代の際に大名行列が往来した道)に面し、菊屋家住宅と対峙するかのように立ち並んでいます。
旧久保田家住宅の主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、立ちが高いのが特徴です。幕末から明治前期にかけての建物として、意匠・構造・技術に優れ、酒造業で繁栄した往時の状況もよく伝えており、史跡萩城城下町を構成するきわめて重要な建物です。

少し歩き江戸屋横丁を入って右手に、木戸孝允(初名:桂小五郎)誕生地と旧宅があります。木戸孝允は、1833年萩藩医和田昌景の長男として、この地に生まれたそうです。

8歳で桂家の養子となりますが、養母が亡くなったため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をここで過ごしたのだそうです。17歳の時に、藩校明倫館で吉田松陰に学び、30歳頃から藩の要職に就きながら京都に赴いて国事に奔走し、坂本龍馬と関わり西郷隆盛らと薩長同盟を結びます。明治新政府でも活躍しましたが、版籍奉還や廃藩置県の実現に多大な力を尽くしたことから、西郷隆盛・大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれています。西南戦争中、京都で45歳で病死し、その短い人生を閉じました。

先ほどの萩城下町からは離れた場所に、伊藤博文旧宅、別邸、陶像があります。この陶像は萩焼でつくられており、この傍に旧宅があります。

伊藤博文は、1841年熊毛郡束荷村の農家に生まれました。幼名は利助(林利助)、のち春輔、そして“博文”と改めたそうです。父・重蔵、母・琴の3人で暮らしていましたが、伊藤博文が5歳の時に飢饉が起こり、不祥事を起こしてしまった重蔵が破産し、母親とともに母の実家へ預けられます。

その後、伊藤博文13歳の時に、父・林十蔵が伊藤家の養子となったため、一家をあげてここに居住したのだそうです。その後、木戸孝允の義弟・栗原良蔵の紹介で松下村塾に入りましたが、身分が低かったために塾外で立ち聞きしていたといいます。しかし、「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「春輔、周旋(政治)の才あり」と吉田松陰の評価を得たといわれています。品川御殿山の英国公使館焼き打ちをはじめ、尊攘運動に参加した後、1863年、井上聞多(馨)らと英国に密航留学しています。

旧宅は、木造茅葺き平屋建ての約29坪の小さな家です。萩藩の中間伊藤直右衛門の居宅であったそうですが、1854年に伊藤博文の父・林十蔵が伊藤家の養子となったため、一家をあげて居住したのだそうです。伊藤博文が1868年に兵庫県知事に赴任するまでの本拠となった家でもあります。

明治新政府では参与、兵庫県令などを歴任し、1871年に条約改正のため、岩倉使節団の一員として欧米各国を歴訪します。帰朝後、参議、工部卿などの要職を経て、英語が堪能であったことが決め手となって1885年に初代内閣総理大臣となるのです。以後、4度内閣を組閣し、日露戦争後、初代韓国総監となり、1909年、枢密院議長として満州訪問の途上、ハルビン駅頭で安重根に狙撃され、69歳でこの世を去ったのです。

農家から足軽、武士、総理大臣という人生は、想像を絶する苦労をしたはずですが、多くの人を殺めてまで、伊藤博文が手に入れたかったものとは一体何だったのでしょう。

明治憲法を制定したり、立憲政友会の初代総裁となったり、旧帝国大学を創設したり、女子教育の発展に尽力したり、一般市民の政治参加を推進したりしたと言われています。しかし伊藤博文の人生の本質は多くの人々を利用してでも、自身の幼少時代の境遇を代替的に改善したかったことに尽きるのではないかという気がしてなりません。

別邸は、伊藤博文旧宅に隣接しています。1907年、伊藤博文が東京府下荏原郡大井村(現:東京都品川区)に建てた広大な別邸の一部を移築したものです。明治時代の宮大工伊藤万作の手によって建設され、大広間廊下の鏡天井や離れ座敷の節天井など非常に意匠に優れていたものであったといわれています。その往時の面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れを解体し、当地へ移築したのだそうです。


白壁となまこ壁や黒板塀の街並みは、歴史を感じさせるものでした。と同時に、なぜ萩藩また長州藩の人間が、江戸幕府を倒して新政府を立ち上げるために命をかけたのか、を考えさせられました。

これまで、多くの歴史小説や新書等で、国を背負う意識が違ったということが書かれていましたが、それよりも実は各人の幼少期の苦労および葛藤があったのではないかと感じました。

ちなみに、以下有料文化財9施設(通常:1施設100円)を鑑賞できる>「萩市文化財施設1日券(310円)」が販売されています。菊屋家住宅以外の主要有料文化財をお得に見られるので、じっくり観光しようとするならお勧めします。

  • 木戸孝允旧宅
  • 青木周弼旧宅
  • 旧久保田家住宅
  • 口羽家住宅
  • 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
  • 旧湯川家屋敷
  • 桂太郎旧宅
  • 伊藤博文別邸
  • 旧田中別邸

萩城下町は、観光名所が集中しているので、比較的観光しやすいと思います。ただ、見どころが多いので、じっくり観光する場合、1日は見ておいた方がいいかと思います。季節にもよりますが、意外に歩くので疲れます。飲食店やコンビニなどお店があまりないので、飲み物や軽食を持参し、休み休み観光することをお勧めします。

(参考資料:萩市観光協会「ぶらり萩歩き」)

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