先日、江戸時代の農山村は経済的に極端に貧しかったと書きましたが、ではなぜそこまで経済的に貧しかったのか?
その原因を、明治時代初期に明治政府が招聘したドイツ人農学者、マックス・フェスカによる指摘から見ていきたいと思います。
例によって、今回も『海外農村視察必携 世界の農業をどうとらえるか』(七戸長生、1993)の本文を抜粋。
戦後まで続いた農山村の貧しさ
明治時代初期の北日本農山村における経済的貧しさですが、
それは何もこの地域に限ったことでも(もちろん極端に貧しい地域もあったかもしれませんが)、
イザベラ・バードが旅した時期の一時的現象でもありませんでした。
なぜなら日本の農山村の経済的貧しさは、第二次世界大戦後まで一貫して取り組む必要があったほど、
日本の農政上、最大の課題とされていたからです。
1882年、駒場農学校に外国人教師として来日したマックス・フェスカは1895年に帰国するまで、
全国各地を地質調査しながら農業実態に触れ、日本農業の近代化に対して重要な提言(『農業改良按』『日本農業及北海道殖民論』『日本地産論』)を行っています。
農業技術が不完全で未発達
彼は、
日本農村の貧困状態を是正するには、なによりもまず、貧しい農民が携わっている生産のあり方を抜本的に変えていく必要がある(『日本地産論・日本農業及北海道殖民論』)
と指摘し、日本の農業従事者がその労働の成果を十分に受け取れていないのは、
農業技術が非常に不完全で未発達だからだと述べています。
そして、
- 一人の農民の耕作する面積が極めて狭いこと(実際に計算し「三分の一ヘクタールに過ぎず」といっている)
- 日本の土壌は必ずしも非常に優良であるとはいえないが、ドイツの土壌よりもかなり優れている。また日本の気候はドイツよりも作物の成長にとってはるかに適している。それなのに単位面積当たりの収穫量を比べてみると、大麦でドイツの六一%、小麦で五〇~七四%、馬鈴薯で三〇~四〇%という低い水準にあること(統計で示している)
(『海外農村視察必携 世界の農業をどうとらえるか』p157、158)
を指摘し、その原因が以下の5点にあると述べています。
具体的には
- 耕耘の深さが浅すぎること
- 耕地の排水が不完全で不良であること
- 肥料の施用が不十分であると同時に、その使用方法を間違っていること
- 作物の輪作的な作付け順序が間違っていること
- 作物と家畜、耕種と畜産の結合が欠けていること
(『海外農村視察必携 世界の農業をどうとらえるか』p158)
個人的には、自然環境の厳しさ(地震、冷害、台風、大雪、大雨、干ばつ、虫の大量発生など)が農山村の経済的貧しさの主原因だと思っていましたが、
『海外農村視察必携 世界の農業をどうとらえるか』(七戸長生、1993)によれば農業技術の未発達が主原因だという見解です。
とはいえ、当時の日本における農業は、農業機械がもたらされるまでの間、牛と人の手(鋤や鍬を使って)で行うのが一般的だった上、
国土の8割近くが山岳地帯で耕しにくく、収穫量以上に労力がかかっていたことも大きいと思います。
同時に、道路も整備されておらず、交通機関も発達していない時代では、例え他集落に発達した農業技術があっても、その情報は広がりにくかっただろうとも考えられます。
改善されないまま…
ちなみに、フェスカが指摘した農業技術の未発達部分は、その後農業機械が導入され、関連知識が広まるにつれて徐々に改善したのではないかと予想していました。
が、実は戦後アメリカや諸外国からの食品流入によって、国産農産物収穫量がそれほど重要ではなくなり、
農業技術の未発達云々は忘れ去られた可能性があります…
また、遺伝子組み換え品種、農薬、化学肥料の大量使用により、農産物収穫量を補った可能性もあります。
そしてそれはつまり、日本の農山村における経済的貧しさの根本原因が解決されていないことを表わしており、
今後も何らかの原因によって経済的に貧しくなる可能性を示唆しているといえます。
現代でも農山村に限らず主要産業がない地域では、工場や危険施設の誘致、もしくは出稼ぎや移住によって、
経済的に貧しい生活を避けるための苦渋の選択が行われているように見受けられます。
もちろん70~100年前と比べれば経済的豊かさを、より多くの国民が手に入れたと思いますが、
農業技術が真に発達しない限り、戦前と同じような経済的貧しさを繰り返すような気がしています。