「世間」とは距離を置きつつ、神経症性を一掃していく

数か月かかって、昨年末ようやく『「私」を生きるための言葉』(泉谷閑示,2009)を読み終えました。

以前この著者の本である『「普通がいい」という病』の内容に強く共感したため読み始めたのですが、当初は期待違いの内容に読み進めるのに苦労しました。

が、徐々に『「普通がいい」という病』に通じる内容だと分かる内容が増えて、それ以降は一気に読めました。

印象に残った部分は数多くあるのですが、その中でも特に印象深い部分を抜粋させていただこうと思います。

日本にあるのは「社会」ではなく「世間」

日本が今日に至ってもなお「社会」の名の下で実質的には「世間」を温存している(p28)

「世間」とは何かというと非常にはっきりしています。つまり個人がいないということです。個人がいないということはどういうことか。一人ひとりが集団の中に埋没しているためです。(p29)

社会も個人もない日本に存在するのは、世間と、世間の支配者だけではないかと思いました…

細かく言えば、個人でも0人称個人は存在しますが、1人称個人は日本国内で苦しみながら何とか存在するか、苦しんだ末に国外へ出ていくかのどちらかだと思いました。

日本において、世間を支配している層からすれば1人称個人は邪魔なだけなので、何らかの形で世間から排除することが多いように見えます(1人称個人自身も居心地が悪いため、世間から出て行くことが多い気がします)。

それについて、著者自身も実例を挙げて述べています。私自身も身近でそうした現実を見てきました。

個人よりも世間が優先されるから、人権意識は低いまま

1人称個人がいない世間では、人権意識も根付きにくいはずです。なぜなら、どんな時でも個人より世間(権力者の意見)が優先されてしまうから

また世間と世間の支配者(=村社会の長老)中心の日本社会では、いつまで経っても年配男性の、年配男性による、年配男性のための国づくりしかできないのかなと思います。

つまり、世間の支配者にとってのみ都合の良い国というわけです。

そうした国では強力な外圧がない限り、前例主義でいっこうに変わらないのも納得です。

日本では対話が難しい

また著者は、日本には1人称個人が少なく0人称個人が多いゆえ、会話の多くが「対話」になりにくい点も指摘しています。

いかに見かけが近代的な様相をとっているにせよ、実質的に行われている会話は、同質性を前提とした同意、同調の確認や押し付け、喧嘩、または単なる情報交換や噂話、そして自分たちの仲間ではない「そと」への批判が主たる内容なのです(p36)

あまりにもその通りすぎて悲しくなりますが、それが日本の現実です。

あと驚いた指摘が、欧米とは異なり、日本は話し手よりも聞き手に責任がある点です。

十分に言葉を扱える年齢になっても日本では「察する文化」(=乳児的メッセージ)があるため、世間では人の顔色をうかがいながらのコミュニケーションが主流となるというのです。

そして世間でのコミュニケーションは、著者曰く「世間」内言語で行われるといいます。「世間」内言語についての説明はここでは割愛しますが、こうした内容に興味がある方であればすぐに分かるかと思います。

世間と距離を保ち、神経症性を一掃する必要がある

私たちが「世間」の中で「私」という一人称を確保し生きていくことは容易なことではありません。しかし、われわれを取り巻く「世間」から上手に距離を保ち、引きずられないように生きることは決して不可能ではありません。しかしそのためには、「世間」の特徴を熟知し、「世間」内言語にからめとられないための構えと技術が必要になってきます。(p143)

著者は、そのための具体的な構えや技術を列挙してくれています(ここでは割愛)。

「世間」では、個人の感情や意見もその集団全体のものとすり替えられたり、「場」の要請だとして語られる傾向があります。「みんなが~」「世間が~」「普通は~」「私たちは~」「ここでは~」「家では~」といった言い方で語られた言葉を聴くとき、それがその語り手の個人的感情や考えが、複数を盾にした偽装ではないかと考えてみることが必要です。(p143)

「世間」にからめとられないために最も必要なことは、自分の内に潜んでいる神経症性を一掃することです。(p145)

日本人の神経症性の強さは様々な本で指摘されています。

が、そんな神経症性まみれの社会で「私」を生きるためには、「世間」内言語と「世間」から距離を置き、神経症性を一掃して生活することが不可欠のようです。

日本の組織に属して他者と関わって生きている限り、それは限りなく難しそうに思えます…私自身幾度となく職場でそれを経験しました。

ただ、著者も述べている通り不可能ではなさそうなので、将来海外生活をするまでに自分の中にある神経症性を限りなく消滅させて、1人称個人として生きる訓練をしていこうかなと思い始めています。