今回は、動物への残虐性を感じる可能性が高い内容のため、苦手な方はそっとページを閉じてください。
さて、明治時代に始まった食品添加物の歴史ですが、今や日本社会における食生活に欠かせない存在となっています。
また、病院では高齢者が同窓会のように集まって、山のような薬で体を薬まみれにしています…
ただ、そんな風に薬漬けになっているのはもはや人間だけではありません。
今回も、『人類が生き残るために』(浅野晴義、1979)から引用します。
鶏卵を例にとってみよう。今や鶏は産卵する機械にすぎない。企業としては、卵の外観をした卵を一つでも多く産めばよいのである。その目的にそって、狭いケージに鶏を押しこめ、太陽の光を遮断して人工光線があてられる。餌は鶏自身には撰択の余地のない配合飼料が与えられる。この中には二十種類もの抗生物質をはじめ、各種殺菌剤が大量に投入されている。こうして生まれてくる卵はどのようなものであろうか。大量に使われる薬剤と、不自然な飼い方が卵に及ぼす影響に関しては、ほとんどなにもわかっていない。
同じことは鶏肉用の養鶏でもみられる。彼等も狭い所で、薬づけで大量生産される。狭い空間でつつきあって傷つけあうからといって、雛のうちにビークカット、つまりくちばしまで切られている。
~中略~
普通に手に入る鶏肉は、まともに鶏の味さえもしなくなっている。
同じことは豚の場合にもいえる。狭い場所に詰めこまれた彼等は欲求不満で尻尾を引っ張りあって喧嘩をする。そこで、生れた子豚は片っ端から尻尾をきってしまう。屠殺場へ送られるときにトン死する豚、胃潰瘍、胃ガンにかかっている豚が多いという。肝臓はまともな形でなく、つぶれたようになっているという。店頭に並ぶ肉は押えると水が滲み出してくる、いわゆるムレ肉である。こんな肉から作られたハムもまた、まともなハムであるはずがない。色、味をごまかすために、さらに多量の食品添加物が使われることになる。
牛肉の場合も同様であって、薬づけの中から生産される。時には抗生物質が残溜する牛肉までが店先に並べられる。
私は人間の治療の場合もそうであるが、抗生物質の予防的投与は危険と考えている。まして家畜の飼料に大量に混ぜて投与するのは許されるべきではない。英国では飼料に抗生物質を使用することは禁止されている。その理由はいくつかあるが、最大の理由は、こうした抗生物質の濫用が、やがてどうにもならない耐生菌を地球上に広げる結果になることである。
消費者にとって、肉がグラムあたりいくら安い、という事が第一の問題なのであろうか。食品として第一に問われるべきは、その肉の質であろう。
業者はいかに単位時間に早く大きくするか、つまり肉としてどれだけ沢山売れるかのみを考える。経済効率のみを追及する結果が、畜産業の堕落をもらたしている。( p23、24)
「経済効率のみを追及する」ようになってしまった日本社会では、まだまだ劣悪環境と薬物飼料で育てられている畜産物が多いはずです。
抗生物質や各種殺菌剤を製造販売する製薬会社に対する規制がないことからも、それは明らかだと思います。
が、安いお肉を求める消費者側にも問題がないとはいえません。食費を安く上げることを善とする社会風潮は、そうした消費者を増加させ続けています。
エンゲル係数だけでは測れない食費のカラクリは多く、食材は購入場所によって高くも安くもなりますし、
同じ食費でも良質な食材を自宅で調理して食べるのか、悪質な食材を外食で摂取するのかでも異なってきます。
結局、悪質な食材を市場から追い出すにも消費者の選択が必要なわけで、日本列島に住む人々が、いかに考え、いかなる行動をとるのかが、畜産物の生育環境に影響を及ぼしているともいえます。
政府自ら国民を平気で危険にさらすような社会では、危険食材から自分と家族の体を守るために、正しい知識に基づく選択を取り続けるしかありません。
多忙かつ財力が乏しい生活ではないがしろにしがちですが、できる限り安全な食材を選択していきたいと思っています。