ぺんぎんメモ

江戸時代から続く「共同体のために個人が犠牲になる」日本社会

time 2019/01/22

江戸時代庶民は現代庶民よりも自由に暮らしていた5つの理由でも紹介した、江戸時代の日本。その中で、当時来日したイギリス人のローレンス・オリファントが『エルギン卿遣日使節録』で指摘した、「個人が共同体のために犠牲になる日本」という表現がずっと引っかかっていました。

江戸時代からそうだったのか?と。

日本国憲法では基本的人権・国民主権・平和主義の前に、まず個人の尊重が定められていますが、現代日本社会で、共同体よりも個人が尊重されている印象は受けません。

そんな「共同体のために個人が犠牲になる」社会では、社会を円滑に運営していくためなら個人は最大限に無視されます。人権無視の過労タヒや、自ら命を落とす人々が多いのも、もしかするとココからきているものかもしれません。

そして、子どもや女性、高齢者の社会的地位が低いのも、日本社会が年配男性中心社会であるからだけでなく、社会を円滑に運営していくためにそうなってしまっているのかもしれません。共同体のためなら個人はいくらでも犠牲にできるんですからね。女性の地位が向上すると、現状の日本社会では何かと円滑に運営できなくなって都合が悪いんでしょう。

会社組織では日々の業務を最低限の人数で円滑に回すために、個人の事情はないがしろにされます。自身が重症な体調不良でも、家族に何かあっても、仕事のために個人は犠牲にされてしまうのです。

それが昔から数百年続いてきた文化なので誰もやめられないし、その文化を捨てたければ「共同体よりも個人を大切にする社会」へ移住するしかありません。日本社会では、どれだけ所属社会のために自分を犠牲にしたかが重要なのですから……赤ちゃんだって社会のために泣く自由を規制されるくらいですからね。

私はこれまで、日本社会にはびこる人権無視風土は経済中心社会であることが原因だと思ってきました。「儲かれば人権なんてどうでもいい」という風に。

確かに、経済中心社会であることもその原因の1つだと思いますが、それだけでなく日本社会で数百年続いてきた、この「共同体のために個人が犠牲になる文化」も原因ではないか?と思うようになりました。

おそらくここ数百年、日本社会では各集落・各家を存続させるために、多かれ少なかれ個人が犠牲になってきたと思います。それでも江戸時代までは、各集落・各家で個人が生まれながらにして得られた恩恵(共同体からの庇護、それなりの自由)があったため、犠牲になっている意識は少なかったかもしれません。

けれども開国以降、各集落・各家を存続させる意味が薄れていくと同時に、それまで個人が受けていた恩恵が無くなり、逆に犠牲になっていると感じることが多くなっていったのではないかと思います。

しかも徳川幕府は庶民生活にほとんど介入しなかったのに、明治政府は西洋化や軍国化にそぐわない行動を国賊扱いしました(同時に、明治天皇に関する調査も法律で禁止にしました)。江戸時代までであれば各集落・各家という共同体に属し、職能をきちんと果たしていれば個人は尊重されたのに、明治時代以降はその尊重を得られなくなってしまったのです。

おそらく一刻も早く西洋化・軍国化したかった明治政府は、表面的に真似しやすい部分では西洋化しつつも、その精神面である「個人の尊重」は無視したのだと思います。意図的に無視したのか、日本社会に取り入れるのが不可能だと思ったのか、単に精神面まで汲み取る余裕がなかったのか、その全てかは不明です。

結果、いくら憲法で「個人の尊重」が定められようとも、慣習法並みに強固な数百年続く文化を捨て去ることは不可能に近いはず……現状、人権無視社会から脱却するためにできることは、個人を尊重するために各共同体に規制をかけることくらいではないでしょうか?

人権無視問題の原因はかなり根深いところにあると気付いて呆然としましたが、江戸時代から変わらない日本人の性質4つでも紹介した、「付和雷同を常とする集団行動癖」という日本人の本質を利用すれば、案外そんな文化も容易に捨て去ることができるのかもしれません。

       



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奨学金完済を目指しながら、旅、食、自然、心理、(セミ)リタイア、移住など追求して自由に暮らしています。

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