の続きです。
旅行最終日、疲れもあってかゆっくり起床し、ホテルを出発したのは9時頃でした。
まず、JR奈良駅改札近くの奈良交通バス案内窓口で、奈良公園・西の京・法隆寺 世界遺産1dayパス(1000円)を購入。
その際、窓口の方が時刻表をくれて、法隆寺行きのバス本数が少ないことを教えてくれました。
今から行くのは唐招提寺なのでとりあえずは大丈夫そうですが、そこから乗り継いで法隆寺へ行く場合は注意する必要がありそうです。それについては、後日書こうと思います!
さて、JR奈良駅東口6番バス乗り場から、奈良県総合医療センター前行きのバスに乗車して約20分、「唐招提寺東口」バス停に到着!
バス停目の前が、唐招提寺の入口でした。
唐招提寺は、唐の高僧である鑑真によって、戒律を学ぶ道場として759年に創建されたお寺です。
入口を入って正面に見えてくるのが、国宝の金堂。
約1300年前につくられた建物とは思えない、しっかりした佇まいでしたが、当時の建築様式をそのまま残しているそうです。屋根の形状や、建物と柱のバランスが美しく感じました!
また、金堂内には盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像がいらっしゃいました。
こちらは講堂(国宝)。鎌倉時代に改造されたようですが、奈良時代当時の平城宮の一部を移築したもので、平城宮唯一の遺構になっているそうです。
こちらは、鎌倉時代に作られた礼堂(重要文化財)。当時、僧侶が生活を送る居住空間だったそうです。
こちらは、鎌倉時代に再建された鼓楼(国宝)。鑑真和上請来の仏舎利など、唐招提寺の創建にかかわる重要な宝物が安置されているそうです。
鼓楼と対をなす建造物として鐘楼がありますが、当時のものは現存せず、この梵鐘(重要文化財)が平安初期のものとして貴重とされています。
校倉(あぜくら)とよばれる伝統的な倉庫の建築様式でつくられており、小さいほうが経蔵で、唐招提寺で最も古い建造物だそうです。
ちなみに2022年3月までの大修理に伴い、鑑真和上座像(国宝)を納めている御影堂(重要文化財)は拝観不可になっていました。
ただ仮に修理がなくとも、鑑真和上座像(国宝)は年に数日しか見られません。
そんな鑑真和上座像の代わりに、毎日参拝できる鑑真御身代わり像が2013年につくられ、開山堂という建物に安置されていました。
今回はその鑑真御身代わり像を拝観しました。
例によって撮影不可のため、売店で購入したポストカードにて。
座っているお姿のためか想像よりも小柄な印象でしたが、全身から何ともいえない意志の強さを感じて、貫かれた信念がにじみ出ているようでした。
渡航を決意されてから実際に来日に至るまで10年以上、その間に失明もあり、御歳も御歳なので、当時の常識で考えると、二度と祖国の地を踏むことができない選択だったはずです。
それでも日本に戒律を伝えるため、5度の失敗後も渡航を諦めず、奈良にまで到達されました。
その強い意志と、来日後に短期間で残した偉大な功績を見ると、とてつもない信念の持ち主であるだけでなく、当時の人々から尊敬を集める存在だったと想像できます。
年に数日しか見られないという国宝・鑑真和上座像、いつかぜひ拝観したいです。
最後に、鑑真が眠っておられる開山御廟へ行きました。周囲の土壁が印象的でした。
ふかふかとした苔が両側に広がる道の先にあるのが、鑑真のお墓です。
ちょうどお寺の方がいらして近付けませんでしたが、ここに約1300年前から鑑真が眠っておられるかと思うと、恐れ多い気持ちになりました。
例によって、鑑真が渡航する様子を描いたもの(『東征伝絵巻』)がポストカードになっていたので、売店で購入。
遣唐使船とはいえ、当時は今と違って華奢な造りの舟だったはずなので、荒波の続く日本海における航海は命がけもいいところだったと思います…
しかも玄宗皇帝や弟子からの信頼が厚かった鑑真は、日本行きを皇帝から許可されなかったり、弟子に邪魔されたりしており…5度の失敗の後、6度目に密かに舟に忍び込む作戦で、ようやく日本の地を踏めたのだそうです。
過酷な船旅によって途中失明しながらも、幾度もの苦難を乗り越えて来日した鑑真ももちろんすごいのですが、鑑真に来日してほしい旨を伝え続けた、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という日本の僧侶もすごいと思いました。
聖武天皇の命とはいえ、異国の地へ、しかも今とは異なる命がけの船旅を経て、10年以上も現地で粘るその辛抱強さに脱帽です。ただ、栄叡は途中で亡くなってしまいましたが…
少し脱線しますが、鑑真が乗った6度目の舟の別便には、遣唐使として長安へ渡り、長年、玄宗皇帝の厚い信頼を得ていた阿倍仲麻呂も乗っていたそうです。
が、阿倍仲麻呂の乗った舟は座礁してベトナムに流れつき、結局日本に帰ることは叶わず、そのまま唐の都・長安で生涯を終えました(西安・興慶宮公園をのんびり歩く ー 阿倍仲麻呂記念碑に思うこと)。
さて、754年、数々の苦難を経てようやく奈良に到着した鑑真は、東大寺で5年、唐招提寺建立後は唐招提寺で亡くなるまでの約4年間、戒律を行ったとされています。
また戒律以外にも、彫刻や薬草についての知識も伝え、貧民救済なども行ったそうです。
失明を伴う過酷な船旅を乗り越え、来日までに10年以上かかったなら、普通であれば到着した途端に力尽きてしまうかもしれません…
が、並大抵の信念で来日したわけではなかった鑑真は、亡くなるまでの約10年間、自分がこの地で貢献できること全てに力を尽くしたに違いありません。
その一連の行動があまりにも偉大だったがゆえに、奈良や日本、しいては現代の庶民である私にまで影響を与えるものになっているのだろうと思います。
行きは興奮していて気付きませんでしたが、入口付近に世界遺産と刻まれた石碑がありました。
鑑真が建立したお寺でありながら、御自身は完成を目にすることなくこの世を去り、財政的後ろ盾がなかったために、完成までに随分と時間を要したという唐招提寺ですが…
鑑真が幾度もの困難を伴って来日したこと、功績が偉大なこと、鑑真和上座像(国宝)の存在、今も鑑真が眠っていることなどが要因となり、唐招提寺には強く惹きつけられるものがありました。
もう一度、時間をかけてじっくり境内を見て回りたいのと、鑑真和上座像(国宝)と納めている御影堂(重要文化財)を見てみたいのとで、飛鳥大仏(飛鳥寺)に続く再訪したい場所となりました。