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川崎から横浜の11kmを歩いた【東海道を歩く】

time 2016/12/17

さて、今回は、川崎から横浜を歩きます。前回歩いた「品川から川崎の13kmを歩いた 東海道を歩く」ときよりもだいぶ寒くなり、ダウンと手袋を着用しての出発です。

これまでは、国道1号線や15号線を歩いてきましたが、今回はまず、京急線沿いを歩いていきます。

少し歩くと、京急線の八丁畷駅があり、こんな看板がありました。東海道は、川崎宿の京都側の出入り口から西へ八丁(約870m)にわたり、畷(なわて)といって街道が田畑の中を真っ直ぐ伸びており、市場村(現在の横浜市)との境界に至ります。そうしたことから、この付近を八丁畷と呼ぶようになったそうです。

その看板の近くに、旧東海道と記載された立派な石碑がありました。

ちなみにですが、この八丁畷付近は、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび堀り出されいたそうです。

江戸時代の記録によると、川崎宿が震災、大火、洪水、飢饉、疫病などの災害にたびたび見舞われ、多くの人々が命を落としているそうで、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿外れの松やけやきの並木下にまとめて埋葬したのではないかといわれています。

そうした不幸にして亡くなった人々の霊を供養するために、慰霊塔が建てられ、無縁塚とよばれながら地元の方々によって供養が続けられているそうです。

その後、旧東海道である商店街の中を歩いていきます。

歩いていると、右手側に横浜熊野神社がありました。

少し歩くと、左側に「市場村一里塚」がありました。

慶長9年(1604年)、徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4km)ごとに街道両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。ここは、江戸より五里目(約20km)の塚に当たるそうです。

商店街に歩道がなくなって危なくなってきたため、国道15号線沿いを歩くことにしました。国道に出た直後に、鶴見川がありました。今回、この鶴見川を含めていくつかの川を見ましたが、工場地帯付近のためか、どの川もあまり綺麗ではありませんでした。

やはり国道は歩きやすいです。日本橋から22kmの地点を通過していきます。

生麦に入り、日本橋から24kmの地点を通過しました。

東かながわに入り、日本橋から28kmの地点を通過していきます。

どんどん歩き進めていくと、神奈川町本陣跡、青木町本陣跡に関する石碑がありました。

本陣とは、大名や公家などが宿泊したり、休息するための幕府公認の宿だそうで、江戸時代に幕府が諸大名に参勤交代をさせるため東海道53次の宿場毎に置いた本陣があり、神奈川宿では滝ノ橋を中心に、江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていたそうです。

ようやく、横浜に到着です。今回は、11kmという距離の割には楽に歩くことが出来ました。寒い時期の方が疲労は少ないということでしょう。次回は、横浜から戸塚を歩きます。

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